旗本渡辺能登守下屋敷跡

マーカーは旗本渡辺能登守下屋敷跡です。

旗本渡辺能登守
[「嘉永武鑑」から三千石から三千九百石迄のもので役職についている者を拾うと、五千石高御側衆に三千百石の渡辺能登守が務めている。  (「旗本について – 歴史学 解決済 | 教えて!goo」より)]

[嘉永4年(辛亥)3月10日(1851.4.11金)
渡辺能登守輝綱が側衆となる。「徳川十五代史」  (「※嘉永4年(辛亥)3月1日(1851)」より)]

徳川譜代の三河渡辺氏
[徳川譜代渡辺氏は、渡辺綱の後裔を称し、綱の曾孫・源正(源次正、小源次正、源公頼)の流れをくむという。系譜によれば足利将軍家に直臣として仕え、後に三河国に移住したとされる。三河の渡辺党は松平氏に代々仕えて功があったが、浄土真宗の門徒であったために三河一向一揆で松平家康(徳川家康)に反旗を翻し、一族の者が多く戦死した。
三河一向一揆に生き残った一族の渡辺半蔵守綱は、一揆鎮圧後も許されて家康に仕え、天正18年(1590年)、関東入国に際して武蔵比企郡に3千石を与えられた。慶長18年(1613年)、守綱は尾張徳川家に配属されて三河加茂郡寺部(愛知県豊田市)に1万4千石を領した。
守綱の二男・渡辺図書助宗綱を祖として幕末には田安徳川家および一橋徳川家家老を務めた大身旗本渡辺図書家、田安家家老を務めた渡辺能登守輝綱がいる。  (wikipedia・渡辺氏より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(嘉永元年・1848年)」(コマ番号6/7・絵図中央に渡辺能登守が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央・「此辺長者ヶ丸」と記述され、その左に渡辺能登守下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は南青山4丁目17の西端交差点で、カメラ東南東方向道路右側が旗本渡辺能登守下屋敷跡になると思われます。