吉井藩松平(鷹司)家下屋敷跡

マーカーは吉井藩松平(鷹司)家下屋敷跡跡です。

関連リンク – 吉井藩松平(鷹司)家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP544・コマ番号316/553に吉井藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 原宿村 豊多摩郡北原宿」がこの地になります。

松平信発
[松平 信発(まつだいら のぶおき)は、文政7年(1824年)5月20日、美作津山藩第5代藩主・松平康哉の四男である松平維賢(これかた)の三男として美作津山城で生まれた。哲丸(幼名)。天保7年(1836年)から江戸に出て文武に励み、江戸時代後期の動乱が近づく中で諸外国の動向や藩政の事情などに精通し、聡明で知られたという。
弘化4年(1847年)6月26日、上野吉井藩第8代藩主・松平信任が死去したため、その養子として家督を継いだ。同年6月28日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従四位下・侍従・左兵衛督に叙任する。
幕末期の名君の一人として実行力があり、水戸藩主・徳川斉昭薩摩藩主・島津斉彬らと交遊している。嘉永6年(1853年)の黒船来航では江戸幕府に対して攘夷と国論統一を図るように進言した。安政4年(1857年)、幕府が日米修好通商条約を結ぼうとすると、不平等条約であることから断固反対している。安政6年(1859年)、安政の大獄により、徳川斉昭が蟄居される際にそれを伝える上使を務めたため、幕府から賞賛された。万延元年(1860年)5月9日、幕府から年々合力米2000俵を支給されることになる。
文久元年(1861年)に第14代将軍・徳川家茂との結婚により和宮が降嫁すると、その「和」の字を憚ってを信和から信発と改める。また、藩政では農民兵を採用した軍制改革を行っている。元治元年(1864年)7月21日、陣屋を矢田(現在の高崎市吉井町矢田)から吉井に移したため、正式に吉井藩となった。
元治2年(1865年)3月26日、養子の信謹に家督を譲って隠居する。しかしなおも藩政の実権は握り続け、信謹の補佐を務めた。慶応4年(1868年)2月22日、徳川家との訣別を示すために松平から吉井に姓を改めている。なお、岩倉具視三条実美新政府首脳陣から再出仕を請われたが、拒絶している。
明治3年3月25日、明治政府から終身現米を支給されることになる。明治23年(1890年)9月2日、死去。享年67(満66歳没)。
著書の『礫川奉使箪記』は、幕末における幕閣の動向を知る上で貴重な史料といわれている。  (wikipedia・松平信発より)]

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●寛文7年(1667)閏2月 – 原宿に上野矢田藩(※吉井藩)主松平家拝領屋敷ができる。
と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸図(元禄10 [1697])」(コマ番号3/5・絵図四つ切右上、イ井カモン下方向に松平左兵(松平信政)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年]」(コマ番号3/5・絵図四つ切右上、井伊掃部頭下方向に松平越前守(松平信清)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図中央左下、龍巌寺右に松平秩丸(松平信発)下屋敷、抱屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図四つ切右上・龍巌寺右に松平左兵エ督(松平信発)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は神宮前三丁目交差点で、この周辺が吉井藩松平(鷹司)家下屋敷跡になると思います。