淀藩稲葉家下屋敷跡(こどもの城・国際連合大学)

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淀藩稲葉家下屋敷跡(こどもの城・国際連合大学)
[こどもの城(こどものしろ)は、東京・渋谷にある、財団法人児童育成協会が運営している児童育成を目的とした施設である。国際児童年(1979年)を記念して、当時の厚生省が構想し、1985年(昭和60年)に開館した。館内には2つの劇場(青山劇場、青山円形劇場)やホテルもある。正面には岡本太郎によるシンボルモニュメント「こどもの樹」が設置されている。この施設が建つ場所は隣接する国際連合大学などとともに、都電青山車庫跡地であり、正面の青山通りを挟んだ向かい側には青山学院大学がある。
2015年(平成27年)2月1日 – 閉館し、同年3月末で全事業が終了した。劇場やホテルの宿泊者を含め、30年間の開館中には2800万超の人々が利用した。
2016年(平成28年)1月 – 当時の舛添要一都知事が跡地の国有地を約370億円で購入し、老朽化した都立広尾病院を移転新築し「首都災害医療センター」を整備する方針を表明した。しかし、東京都医師会が「決定過程が不透明」として移転に反対した。
2017年(平成29年)7月 – 小池百合子が都知事に当選後、計画は撤回され、広尾病院は現在地で建て替えられることになった。
2018年(平成30年)9月 – 都議会代表質問において、小池知事は「こどもの城」について、「誰もが利用できる施設へとリノベーションして、都民の学習やスポーツなどの場となる複合拠点を創出していきたい」と答弁。建物と土地の早期取得に向け、所有者である国と協議を進める方針を示した。
2018年(平成29年)11月 – 都が、旧「こどもの城」の土地と建物を国から買い取るため、2019度予算案に約610億円を計上する方針を固めたことが分かった。都は跡地を2020年東京オリンピックパラリンピックで、ボランティアの拠点として活用した後に、100億円以上かけて本格的に改修し、複合型施設にリノベーションする方針である。
2019年(平成31年)2月 – 都は、施設内の青山劇場と青山円形劇場を改修し、既存施設の活用を検討。地元の渋谷区や都議会の意見を踏まえ、子供向けの施設も活用する方針で、改修費に数十億円を見込む。都の基本的な活用方針は、「子供のための機能」を盛り込み、プレイホールの活用、青山劇場を改修して多目的ホールに、高齢者や障害者も利用できるスポーツ施設、女性の起業支援施設などを検討する。2029年以降の計画では、隣接する国連大学の用地も含め、周囲の都有地を含めた約4.5ヘクタールの用地の一体的な整備を考える。
2019年9月10日付で都は国と売買交渉を続けてきた旧国立児童館「こどもの城」について、525億円で買い取る契約を結んだ。都では2019年度当初予算に購入費など609億円を計上していたが、不動産鑑定を受け、契約金額を見直した。なお、旧「こどもの城」は「都民の城」に改称。館長には尾木直樹が就任の予定。 11月22日、都は、都民の城としての改修基本計画の中間概要を発表した。  (wikipedia・こどもの城より)]

都 築地再開発・都民の城改修は休止

[青山電車営業所(青山車庫前) 6, 9, 10系統を担当。1968年廃止。構内敷地は広く、電車運転教習所が併設され、築山や池、林もあった立派な教習コースが存在した(ただし一方通行)。現在は国連大学本部、こどもの城(青山劇場、青山円形劇場など)が立地し、教習所跡は広大な未利用地(約1.7ヘクタール。2008年3月31日までは東京都職員共済組合青山病院があった)となっている。(「wikipedia・東京都電車より)]

[青山病院とこどもの城の場所はかつて山城国淀藩稲葉長門守の屋敷で、その屋敷の池が明治以降も都電の車庫~病院敷地内の庭に残っていたようです。西側に開けた窪地の奥の池であることや、標高からして湧水池だったのでしょうね。どこかで詳しい記述を見た記憶がありますが、忘れてしまいました。水が涸れていたとは、干上がっていたということでしょうか。勿体ないですね。  (「東京の水 2005 Revisited-いもり川(1)水源・この記事へのコメント」より)]

聴秋閣(※扇流閣)
[三渓園内にある聴秋閣は、元和9年(1623年)、江戸幕府三代将軍徳川家光が上洛するに際し、佐久間実勝に命じて二条城内に建造させたもので、当時は「三笠閣」と呼ばれていた。その後家光によって乳母であった春日局に下賜され、春日局の孫にあたる老中稲葉正則の江戸屋敷に移築されて明治維新を迎えた。明治14年(1881年)に東京府牛込区若松町(現在の東京都新宿区若松町)の二条基弘公爵邸に移され、さらに大正11年(1922年)に実業家で茶人の原富太郎(号:三渓、1868年-1939年)に贈られ、現在地に建てられた。その際に名称も聴秋閣と改められた。
聴秋閣 (2006年7月)・wikipedia-photo  (wikipedia・聴秋閣より)]

東京官園
[官園(かんえん)は、開拓使北海道および東京府に設置した、農業に関する試験・普及機関である。
明治維新以降、さまざまな分野で海外の技術を導入することとなったが、北海道の開拓もまた例外ではなかった。開拓の拡大は農業がその先鋭となったが、本州の平地とは異なる亜寒帯に属する北海道では用いる技術が異なることから、アメリカやヨーロッパの技術が導入され、試験されることとなった。この試験を実施する場所を、官園と通称した。
最も早く試験が始まったのは、すでに一定の開拓が進んでいた北海道南部の函館周辺であった。1870年に渡島国亀田郡七重村に七重官園(ななえかんえん)が設置された。
一方、開拓使教師(お雇い外国人)であったホーレス・ケプロンは、1871年にその職に就任すると直ちに、海外からの種苗や種畜の調達、気候の解析など、精力的に農業に関する建言を行った。その中で、将来首府となるであろう札幌に官園を設けることを提案し、1871年に設置された御手作畑を含む地域を1873年に札幌官園(さっぽろかんえん)と定めた。また開拓次官であった黒田清隆は、これら種苗や種畜を北海道に持ち込む前に馴化させるため、東京の3か所の大名屋敷跡にその地を求め、1871年に東京官園(とうきょうかんえん)を設置し、技術指導者としてルイス・ベーマーエドウィン・ダンが招かれた。その後、北海道東部の根室には、1874年に根室官園(ねむろかんえん)が設置され、それぞれの地域実情に合わせた試験と実証を積み重ねた。
官園では、開拓の現場において西洋の農業技術を普及するための技術者である現術生徒や、研修を受けて村で洋式農業を実践する農業修業人の育成も担った。これら生徒や修業人は、試験の成果を普及するのに大きな役割を果たした。
東京官園
●1871年9月 – 開拓使により東京府青山南町に1号(松平頼英邸跡・西条藩松平家上屋敷跡、4万坪弱)、青山北町に2号(稲葉正邦邸跡、5万坪)、麻布新笄町に3号(堀田正倫邸跡・佐倉藩堀田家下屋敷跡、5万坪弱)の官園が設置される。11月には南豊島郡下渋谷村民有地約3万坪を買上げ、第3官園に編入。
●1875年3月 – 東京農事試験所に改称される。
●1876年3月 – 渋谷村ほか五カ村民有地4万坪強を買上げ、第1、第2号試験場に編入、また、第3官園には約7千坪の牧場が施設され、麻布の開拓使牧場と通称された。
●1880年 – 勧業試験場に改称される。
●1881年 – 第1、第2試験場を廃止する。
●1882年 – 第3試験場を廃止する。  (wikipedia・官園_(開拓使)より)]

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
明暦3年(1657) – 稲葉家下屋敷(旧青葉町)ができる。(当時は相模小田原藩)
●寛文9年(1669)5月 – 稲葉家屋敷、出石藩主仙石家下屋敷に相対替となる。
天和元年(1681)12月 – 老中稲葉正則が隠退して渋谷の下屋敷に閑居する。(当時は相模小田原藩)
と記述されています。]

淀藩稲葉家下屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸図(元禄10 [1697])」(コマ番号3/5・絵図四つ切右上、此ヘンシブヤト云上方向にイナバタンゴ(稲葉正往)、仙石エチゼン(仙石政明)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年]」(コマ番号3/5・絵図四つ切右上、甲州道高井戸道右に稲葉丹後守(稲葉正知)、左に仙石越前守(仙石政明)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図左中上・稲葉長門守(稲葉正邦)が淀藩稲葉家下屋敷です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下、稲葉美濃守(稲葉正邦)下屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 東京府豊多摩郡澁谷町(出版年-1911.11)」(地図中央上方向・大字北町七丁目1,2が淀藩稲葉家下屋敷跡と思われます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 稲葉候渋谷別業図. 1」(稲葉候庭園扇流閣絵図及び解説文)、「国立国会図書館デジタルコレクション – 稲葉候渋谷別業図. 2」(扇流閣絵図)

カメラ北北西方向が淀藩稲葉家下屋敷跡(国際連合大学)です。

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