豊栄稲荷神社

マーカーは豊栄稲荷神社です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右上・「中渋谷」右に稲荷と合祀移転前の田中稲荷神社が描かれています。)

豊栄稲荷神社
[豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)は、東京都渋谷区渋谷にある稲荷神社である。この神社は、1961年(昭和36年)渋谷駅近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたという。)と区内道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀されて建立された神社である。社殿の扁額には両社の社号が刻まれている。
豊栄稲荷神社・wikipedia-photo  (wikipedia・豊栄稲荷神社より)]

[豊栄稲荷神社は、元禄16年(1703)8月の創建と伝えられ、もと渋谷駅近くにあったものを、金王八幡宮隣の当地へ昭和36年遷座しました。
●東京都神社名鑑による豊栄稲荷神社の由緒
鎌倉時代のころ、渋谷家の祖河崎土佐守基家の曾孫渋谷高重によって創建せられたと伝えられている。元渋谷川の辺、渋谷駅の近くにあった。渋谷川が渋谷城の壕に利用されていたので、文化のころ(一八〇四-一八)までは「堀ノ外稲荷」と称せられ、その後「田中稲荷」と称せられていた。また川の端にあったので「川端稲荷」ともいわれた。(東京都神社名鑑より)
●新編武蔵風土記稿による豊栄稲荷神社の由緒
(中渋谷村)稲荷社
田中稲荷と號す、中豊澤村東福寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
●庚申塔群(渋谷区指定有形文化財)
庚申信仰江戸時代に庶民の娯楽を兼ねて流行し、それによって各地に庚申塔が建てられました。二三には十三基の庚申塔が集められていますが、像容はまちまちです。一般的に見られる六臂の青面金剛像だけのもの、その下部に天邪鬼三猿を配したもの、三猿のみのもの、及び「為庚申供養」と文字だけを刻んだものなどがみられます。これらは町や村の辻に建てられたこともあって、右から七番目の塔には「めぐろ・こんわう遁」 と刻まれていて、道しるべを兼ねていました。また、すべての塔の下部に建立者の名前が刻まれていますが、右から三番目のものには渋谷伝左衛門以下同姓の名が見え、旧領主渋谷氏との関連があるかどうか興味がもたれます。
庚申信仰の内容については、境内の「庚申塔略記」をお読みになって下さい。(渋谷区教育委員会掲示より)  (「猫のあしあと – 豊栄稲荷神社|渋谷区渋谷の神社」より)]

庚申塔略記碑
[ここに建てられている庚申塔は江戸時代、中渋谷村、中豊沢村、宮益町など金王八幡神社を中心とする地域に住んでいた人々が建てたものです。そのころ人々は大変盛んであった庚申、信仰を受け入れ、近隣相集い講を結んで61日目毎に廻ってくる庚申の日に、勤行飲食談笑しばし日ごろの労苦を忘れて一夜をすごすのが娯楽の少ない当時としては無上の楽しみでありました。これを庚申待といいます。庚申信仰の功徳作法などを述べた庚申縁起という本に三年一座即ち一年に六度三年で十八度の庚申待を終ったならば平素よりも御盛物などをたくさんあげて塚を築き塔を建てて盛大に供養するようにと書いてあります。この辺の講中の人々も恐らくその教えに従ってこれらの塔を建てたものと思います。
年代は延宝2年(1672)から元文4年(1739)までのものです。もとは、それぞれ村や町中に建てられていましたが都市化の早かった渋谷では明治末から大正時代にかけて渋谷川畔にあった田中稲荷の社殿の周囲に順次集められ戦災を蒙るまでそこにならべられていました。戦後区画整理の実施とともに、田中稲荷は金王八幡神社南側の地に移り豊栄稲荷と名を改め庚申塔は八幡神社の社殿横に移され今日に及びました。今回金王八幡神社鎮座八百八十周年記念の為社殿社地の整備に際し豊栄稲荷は崇敬会諸氏の御盡力で立派な社殿が再建され庚申塔も旧渋谷村民の歴史的文化遺産として手厚い保護のもとに次の世代に受継がなければならないと有馬康男、安藤善啓氏をはじめ多くの皆さん方の御努力で当社地に還りました。この昔の姿を語りかけてくれる貴重な遺物が立派に整備されたことは大変誉なことでこれからも大切に見守ってゆきたいものです。渋谷に生まれ庚申の研究者の一人として依頼されましたのでいささか略記させていただきました。  昭和47年(1972)12月 庚申懇話会 横田甲一  渋谷区道玄坂2-5-8   安藤善啓建之  西麻布 石久刻  (「東京都渋谷区の歴史 庚申塔略記碑(豊栄稲荷神社)」より)]

豊栄稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が豊栄稲荷神社参道です。

カメラ西南西方向が豊栄稲荷神社拝殿です。

豊栄稲荷神社拝殿前のカメラです。