高鍋藩秋月家下屋敷跡

マーカーは高鍋藩秋月家下屋敷跡です。

関連リンク – 高鍋藩秋月家上屋敷跡(カタール大使館・マダガスカル大使館)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP612・コマ番号350/553から高鍋藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 青山長者町青山長者丸 赤坂区青山南町六丁目」がこの地になります。

秋月種茂
[秋月 種茂(あきづき たねしげ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。日向国高鍋藩7代藩主。剃髪後の号は鶴山。名君と呼ばれた米沢藩上杉鷹山の兄に当たるが、種茂もまた高鍋藩の全盛期を築いた名君とされている。
寛保3年(1744年)、6代藩主・秋月種美の長男として誕生した。宝暦6年(1756年)11月15日、9代将軍・徳川家重御目見する。宝暦7年12月18日(西暦で1758年)、従五位下・山城守に叙任する。宝暦10年(1760年)7月8日、種美の隠居により家督を継ぐ。宝暦11年(1761年)4月18日、初めてお国入りする許可を得る。
藩主になると藩政改革に臨んだ。改革に必要なものは人材登用であると考え、安永7年(1778年)に藩校明倫堂を創設し「教育の高鍋藩」の基礎を築いた。このとき、種茂は藩校に通える者を武士だけに限らず、民百姓に対しても開いた。この明倫堂からは、明治時代に活躍する多くの人材(三好退蔵秋月左都夫石井十次)が出ている。また、大坂から優秀な産婆を呼び寄せ、安全な出産方法を藩内に普及させるとともに、日本で初めて子供手当を支給するなど、現代でいう児童福祉にも心を配り、財政再建政策も行った。
名君として名をはせた弟の上杉鷹山は、「兄は僻遠の藩主ゆえ名を知られていないが、もし兄が(私に替わって)米沢の藩主になっていたなら、米沢は今よりもずっと繁栄していただろう」と種茂を称賛している。天明8年(1788年)11月6日、家督を長男の種徳に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は握り続けた。
文政2年(1819年)11月6日、死去。享年77。  (wikipedia・秋月種茂より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 青山辺場末絵図 : 寛保延享之頃(1741年-1748年)」(コマ番号2/3・絵図中央下方向、長谷寺の左上にに秋月佐渡守(秋月種美)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [12]拾七下(嘉永元年・1848年)」(コマ番号6/7・地図中央上に長谷寺が描かれ、長谷寺の下に秋月佐渡守(秋月種殷)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央下・長谷寺の上に秋月佐渡守(秋月種殷)下屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第六 赤坂区全図 – 特別区協議会」(地図左方向、青山南町六丁目108,109番が高鍋藩秋月家下屋敷跡と思われます。)

カメラは表参道 ヨガ Aki Tulaのストリートビューで、この付近が高鍋藩秋月家下屋敷跡の中心になると思います。