マーカーは「神田上水懸樋跡」の碑です。
上水樋跡(御茶ノ水懸樋)
[神田上水は、関口大洗堰で流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園、〔文京区後楽1丁目〕)方面に流し、右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった(かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称した。1965年(昭和40年)の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一にした。)。関口大洗堰が設置された年代はわかってはいない。『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年(寛永6年)とあるから、それ以前に建設されたのではないかと思われる。
水戸屋敷に入った上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ屋敷を出る。水戸屋敷を出た上水は御茶ノ水の懸樋(水道橋)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。そこから三手に分岐し、一つは神田橋を経て、道三堀北側の大名屋敷に、もう一つは神田川北岸の武家地に、そして最後の一手は神田川南岸の武家地及び町人地に給水する。 町人地に向かう水は二手に分かれ、一方は日本橋北側・内神田を、もう一方は日本橋南側を給水していた。
神田上水による給水順次は武家地が優先で、残りの水を町人地へ給水している。これは江戸期の初期の上水道によく見られる傾向であるとされている。後年になると武家地と町人地を分けて系統化する上水道(玉川上水はこれに近いという)や武家地と町人地を分別せず給水する混在型の上水道が出てくるようになる。
神田上水がいつ竣工したかについての特定は難しいが、寛永年間には完成していたであろうといわれている。 (wikipedia・神田上水より)]
[水戸藩上屋敷(「水戸殿」の中を流れて来た神田上水が「大下水」と記された小石川を「掛ヶ樋」で渡っています。水源地より開渠であった神田上水は水戸藩邸を出ると暗渠となり、地中に埋設された「万年石樋」により水が送られました。ねずみ色で描かれている部分が「万年石樋」で、石樋は上水道専用の橋である御茶ノ水の「掛ヶ樋」へとつながります。掛樋の上流には「水道橋」が描かれています。神田上水の状態を監視する「見守番屋」が掛樋のたもとに記されています。神田川を掛樋で渡った神田上水は、対岸へ渡った後も暗渠のままで神田、日本橋方面へと水を送りました。
(「上水記 – 東京都水道歴史館」より)]
『上水記』を基礎にした玉川上水及び神田上水の江戸市中の幹線配水路
左下:玉川上水の江戸市中における水理構造の模式図
図版すべて神吉和夫『玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する研究』1994より (「近世城下町に見る水道の知恵 – ミツカン水の文化センター」より)]
「神田上水留. [2] 神田上水小川町御住居掛新規樋枡御普請一件 天保五午年七月 御普請方 分冊ノ一」(43/116・上水樋西側の神田上水樋管が描かれています。)
「神田上水留. [5] 神田上水水道橋外石川伊豫守屋敷前より同所掛樋取附迄石垣樋御修復一件 天保九戌年正月 御普請方 分冊ノ二」(38~40/88・御茶ノ水懸樋の北岸図が描かれています。49,50/88・御茶ノ水懸樋北側改修ヶ所図が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「水道橋」(1-53)、「水道橋解説・右ページ右」(1-55)
水道橋(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 神田川 水道橋(拡大図)
絵本江戸土産 – 御茶ノ水懸樋(拡大図)
江戸期の水道橋から、上水樋跡(御茶ノ水懸樋)を望んだ写真。(上流から下流を望む)
カメラ南南東方向に「神田上水懸樋跡」の碑があります。
「神田上水懸樋跡」の碑(Google Map 画像)
カメラ南方向に「神田上水の碑文」の碑があります。(Google Maps)
水道橋駅附近にある神田上水の碑文(wikipedia-photo)
カメラ北方向に神田上水懸樋跡の案内板があります。(Google Maps)
神田上水懸樋跡の案内板(Google Map 画像)