丹波亀山藩松平(形原)家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP490・コマ番号289/553から亀岡藩(丹波亀山藩)屋敷の変遷について記載されています。P491・コマ番号289/553「上屋敷 一ツ橋外」がこの地になります。

丹波亀山藩松平(形原)家
[亀山藩(かめやまはん)は、江戸時代丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視された。伊勢亀山藩との区別から丹波亀山藩とも呼ばれる。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、これ以降は亀岡藩(かめおかはん)と呼ばれる。藩庁は亀山城
寛延2年(1749年)、青山氏と入れ替わりで形原松平家松平信岑が亀山藩主となると、以後はこの家系が代々の亀山藩主として定着した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府の山陰鎮撫使に降伏する。明治2年6月19日(1869年7月27日)、伊勢亀山藩との混合を避けるため亀岡藩と改称する。明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により亀岡県となる。  (wikipedia・丹波亀山藩より)]

[第7代藩主松平信義は老中(1860年 – 1863年)となり、文久2(1862)年、老中本多忠民(初回・1860年 – 1862年)の辞職により、日比谷御門内の本多忠民屋敷への屋敷替えとなり、この地は西尾藩松平(西尾大給)家上屋敷となります。また、松平信義は1863年老中辞職後は外櫻田の福知山藩朽木家上屋敷への屋敷替えとなります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央下雉子橋左上に、松平紀伊守(松平信志)が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央上に松平紀伊守(松平信義)上屋敷が描かれています。

東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/文久3[1863]改)」(絵図四つ切左下・日比谷御門下に松平豊前守(松平信義)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正飯田町駿河台小川町絵図(嘉永2[1849]/文久3[1863]改正)」(絵図中央上に牧野讃岐守(牧野誠成)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は共立女子大学前交差点で、カメラ北西方向雉子橋通り、集英社付近までが丹波亀山藩松平(形原)家上屋敷跡です。