マーカーは田安門前です。
九段坂
[1933年から1966年まで使用された町名。当初は麹町区、1947年からは千代田区のものとなった。町名も坂の名も、江戸時代この丘の傾斜に9層の石段と「九段屋敷」という江戸幕府の御用屋敷が造られたことに由来する。1966年、現在の九段南・九段北1-4丁目となる。付近には千代田区立九段中等教育学校(旧東京都立九段高等学校)や、暁星学園などの教育機関も数多く存在している。 (wikipedia・九段より)]
[九段下交差点から靖国神社の南側に上る坂です。九段の由来については、江戸城吹上庭園の役人の官舎が坂の途中に9棟並んでいたからとも、急坂で九つの段があったともいわれています。飯田町の坂であるところから、古くは「飯田町坂」、「飯田坂」などとも呼ばれていました。この坂上は観月の名所として知られ、毎年一月と七月の二十六日を、二十六夜持ちと称し、人々が坂上で月の出を賞したということです。 (「千代田区総合ホームページ – 千代田区内の坂 – 38九段坂(くだんざか) 」より)]
九段二丁目
[現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。関東大震災以前はいまよりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋(おしや)」が常に集まり、客を待っていたほどでした。また、坂上にある靖国神社は、新宿方面から神田方面に抜ける主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋、浅草、本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(ともに現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに、西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を拝み見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町と呼ばれていたのもそのためです。 (「千代田区 町名由来板ガイド:九段二丁目(くだんにちょうめ)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」(絵図右上・田安御門下に九段坂が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五年調」(コマ番号3/4・絵図中央右「田安門」前に「九段坂」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」(コマ番号5/6・絵図上中央「田安門」前に「九段坂」が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「飯田町中坂九段坂」(1-52)、「田安の台解説-1・左ページ左」(1-49)、「田安の台解説-2・右ページ1行目まで」(1-51)
飯田町中坂九段坂(拡大図)
[左端の道が九段坂、その右が中坂です。]
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「神田明神祭礼其二飯田町」(4-31)
神田明神祭礼其二飯田町(拡大図)
[九段坂上から神田方面を描いた神田明神祭礼行列。この後、行列は田安門から江戸城に入った。]
狂歌江都名所図会 – 九段坂 中坂 俎板橋(拡大図)
絵本江戸土産 – 九段坂より下町の眺望(拡大図)
カメラ位置はトヨタ九段ビル前で、カメラ南方向・街路樹の間に九段二丁目町名由来板ガイド板があります。
九段坂上・カメラ東方向が九段坂です。
田安門前、カメラ南南東方向が田安門です。
九段坂下・カメラ位置は九段下交差点で、カメラ西方向が九段坂です。