マーカーは二合半坂標識です。
[九段中学校前から「大神宮通り」に向かって下る坂です。『江戸砂子』に「日光山半見ゆる故ともいふとあり、富士山は一合より十合まで数ふる例に因り、日光山を五合に見つもりていへるにや」とあります。つまり五合の半分であれば二合半というわけでしょう。なお、二合半は一升の半分の半分すなわち四半分で、この分量は「こなから」といわれるところから、「こなからざか」とも呼ばれてきました。 (「千代田区総合ホームページ – 二合半坂(にごうはんざか) 」より)]
神田孝平
[暁星学園のそばには、維新後、現代財政制度の先駆けとなった「地租改正」を提案した神田孝平(たかひら)と、英語教育の先駆者で、日本で最初のコンサイス(袖珍コンサイス、とある)を出した、息子の神田乃武(ないぶ)の家がありました。孝平は、明治維新の財源を、江戸時代の物納(年貢)に代わり、カネ(地租という固定資産税)による納税に改めさせ、現在の登記制度の基礎をつくりました。海外事情に精通した彼は、日本の言葉を英語に変える提案もし、息子をアメリカに7年間留学させました。帰ってきた乃武は日本語を忘れたため、通訳を介して孝平と対話したそうです。納税の見返りに国民全てに与えられた不動産は、その後、価格が高騰し(明治35年から10年で3倍)、土地バブルを繰り返しました。 (「千代田区観光協会 – 第74回 九段下界隈 その3」より)]
二合半坂資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」[嘉永3年(1850年)尾張屋版絵図右端から二つ目の通りが二合半坂で、モチノ木坂との交点右に川路左衛門尉と描かれています。]、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」(安政7年(1860年)尾張屋版右端から二つ目の通りが二合半坂で、モチノ木坂との交点右に新見豊前守と描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五年調」(コマ番号3/4・絵図中央下方向に「二合半坂」が描かれています。)
二合半坂上・カメラ北北西方向が二合半坂になります。カメラ南方向右側・現在の暁星中・高等学校に敷地に川路聖謨、新見豊前守が相前後して住居したことがあります。
カメラ北方向に二合半坂標識があります。また、この付近に明治維新後・神田孝平が住居していました。
二合半坂下・カメラ南東方向が二合半坂です。