五十稲荷神社

マーカーは五十稲荷神社です。

関連リンク – 足利藩戸田家上屋敷跡

五十稲荷(ごとういなり)神社
[五十稲荷神社は正式社名を栄寿稲荷神社といい、御祭神に、倉稲魂命(うがのみたまのみこと。食物を司る保食神)を祀る。社伝によると徳川時代既にこの地に鎮座し、京都伏見稲荷神社より御霊を奉戴、安産守護神として厚く崇敬された。正徳年間(1711~16)戸田長門守の屋敷となったが、戸田家ではこの地の鎮守として奉祀し、領地足利市にある「稲荷大神」(現雪輪稲荷神社)をも合祀して「栄寿稲荷大明神」となった。
戸田家は足利領で五・十の日に織り物市を開く慣わしがあり、江戸邸に於てもその繁栄を祈願する為に月次の祭事を五・十の日に執り行い、諸人の参詣を許した。毎月五の日と十の日を縁日としたので五十稲荷の名が生まれた。安産を願う妊婦が近県からも集まり、毎月の縁日、特に夏の夜の混雑ぶりは今の新宿にも匹敵するといわれ、『風俗画報増刊東京名所図絵 神田区之部』(明治32年)の中に、当時隣にあった映画館『南明館』とともに描かれている。  (「大好き神田-小川町三丁目南部町会」より)]

[慶長年間に伏見稲荷大社から分霊して祀られたのが発祥であり、安産の利益があるとして徳川家からも信仰されていたと伝えられている。その後敷地の持ち主となった戸田家の屋敷神として祀られ領地足利市雪輪町旧御陣屋大門の稲荷大神と合祀されていた。安産守護で知られている。明治25年戸田家転居以降は町内の守護神として祀られる。  (「栄寿稲荷神社(五十稲荷神社) – 千代田区観光協会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切左上・土屋采女正(土浦藩土屋寅直)上屋敷上に戸田武次郎(足利藩戸田忠文)上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央に土屋保三郎(土屋英直)と記述され、その右に戸田大隅守(戸田忠喬)が描かれています。]

五十稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が五十稲荷神社です。

五十稲荷神社拝殿前のカメラです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*