今治藩松平(久松)家神田上屋敷跡

マーカーは今治藩松平(久松)家上屋敷です。

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松平定剛
[松平 定剛(まつだいら さだよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。伊予国今治藩7代藩主。定房系久松松平家7代。
明和8年(1771年)6月30日、6代藩主・松平定休の長男として誕生。天明6年(1786年)12月に従五位下、壱岐守に叙任する。寛政2年(1790年)4月5日、父の隠居により跡を継いだ。藩政においては文化5年(1808年)から文政7年(1824年)まで奏者番を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力した。文化14年(1817年)5月には藩校・克明館を創設し、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及などを図った。瀬戸浜塩田の着工なども行なっている。  (wikipedia・松平定剛より)]

松平勝道
[松平 勝道(まつだいら かつみち/かつつね)は、9代藩主。官位は従五位下・若狭守、駿河守。
文化10年(1813年)1月13日、池田政行(6代藩主・松平定休の六男)の次男として誕生。天保5年(1834年)3月26日に従兄で8代藩主・松平定芝の婿養子となり、同年12月22日に従五位下・若狭守に叙任する。天保8年(1837年)9月12日、定芝の死去により家督を相続した。
天保14年(1843年)10月1日から文久2年(1862年)閏8月23日まで奏者番を務めた。この間、弘化3年(1846年)12月には駿河守に転任、嘉永6年(1853年)、将軍が交代して徳川家定が就任すると、その偏諱(「定」の字)を避ける形で初名の定保(さだやす)から勝道に改名した。藩政においては文治政策に尽力し、種痘を実施し、万延元年(1860年)には古江浜塩田を完成させるなどした。文久2年(1862年)11月21日、自身の養子となっていた定芝の三男・定法に家督を譲って隠居し、慶応2年(1866年)8月6日に死去した。  (wikipedia・松平勝道より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」(コマ番号3/4・絵図四つ切左上に松平壱岐守(松平定剛)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年」(絵図下中央右に松平駿河守(松平勝道)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 元治再刻飯田町駿河台小川町絵図(慶応元[1865]再刻)」[絵図中央左下・松平駿河守(松平勝道)上屋敷が描かれ、元の上屋敷地は講武所となっています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左に堀田備中守(堀田正睦)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は六差路交差点で、カメラ位置から西方向、東方向が今治藩松平(久松)家上屋敷跡になります。今治藩松平(久松)家上屋敷周辺地域は安政6年(1859年)ごろには上地され、幕府の講武所が設けられ、明治に入り陸軍練兵場となり、明治二十三年(1890年)には、陸軍練兵場が三菱社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発が始まりました。今治藩松平(久松)家上屋敷の移転先は堀田備中守上屋敷が現在の日本橋浜町3丁目に移動(浜松町に移転した佐倉藩堀田家上屋敷)した跡地、現神田神保町の錦華通りに面した北半分を拝領しています。