マーカーは六浦藩米倉家上屋敷跡です。
関連リンク – 六浦藩米倉家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP669・コマ番号378/553から六浦藩屋敷の変遷について記載されています。P671・コマ番号379/553「上屋敷 牛込門内」がこの地になります。
六浦藩米倉家
[六浦藩(むつうらはん)は、武蔵国にかつて存在した藩。久良岐郡の一部(現在の神奈川県横浜市金沢区)、相模国大住郡の一部(現在の神奈川県平塚市・秦野市)などが含まれる。現在の横浜市内にあった唯一の藩である。
金沢文庫で知られる久良岐郡金沢(かねさわ、かなざわ)近傍の六浦に陣屋を置いたため武州金沢藩や武蔵金沢藩とも呼ばれる。藩庁は六浦陣屋に置かれた。ただし、金沢文庫周辺の各村は当藩の所領ではなく、また久良岐郡内よりも大住郡などの飛地の方が村数・石高ともに大きかった。
1869年(明治2年)6月の版籍奉還を受けた明治政府による知藩事任命後に六浦藩を正式名称とした。1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県により六浦県となった。
六浦藩を治めた米倉氏は、もとは甲斐武田氏に仕え、1582年(天正10年)に武田氏が織田信長によって滅ぼされた後に徳川家康に仕えた。米倉昌尹の代に5代将軍徳川綱吉のもとで頭角をあらわし、下野皆川藩1万5000石を領し、うち3000石を分地したが、その後陣屋を六浦に移した。また、六浦藩の初代藩主・米倉忠仰は柳沢吉保の実子である。
陣屋遺構として、当時の石段が残っている。 (wikipedia・六浦藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年」[絵図右下に米倉丹後守(米倉昌寿)上屋敷が描かれています。]
カメラ位置は飯田橋駅西口で、カメラ北東方向が飯田橋プラーノで、飯田橋駅東口までが六浦藩米倉家上屋敷跡になります。