土浦藩土屋家上屋敷跡

マーカーは土浦藩土屋家上屋敷跡です。

関連リンク – 土浦藩土屋家下屋敷跡(御薬園坂)土浦藩土屋家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP642・コマ番号365/553から土浦藩屋敷の変遷について記載されています。P645・コマ番号366/553「上屋敷 小川町」がこの地になります。この後、この地は歩兵屯所となり、土浦藩上屋敷は小名木川、次に濱町へ屋敷替えとなります。

土浦藩土屋家
[土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。
土浦は戦国時代、戦国大名である小田氏が領有していたが、小田氏が滅びると結城氏の所領となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、結城秀康越前福井藩に移封され、代わって譜代の松平信一が3万5000石で土浦に入り、土浦藩が立藩した。しかし信一の養子である信吉の代に上野国高崎へ移封される。信吉はこの時、土浦城の建築を進めており、水戸街道を城下に組み込んだ南門、西門、北門と城下が完成したところでの転封であった。
代わって上野白井より西尾忠永が大坂の陣の功績により2万石で入るが、子の西尾忠照のときに駿河田中藩へ移封となる。西尾氏の統治期間には土浦城の建築が進められ、領内検地も行われた。
下野鹿沼から朽木稙綱が3万石で入るが、子の朽木稙昌のとき丹波福知山へ移封となる。
代わって徳川家光に仕えて若年寄に栄進した土屋数直寛文2年(1662年)2月に1万石で入る。後に数直は老中に栄進し、それにより所領も4万5000石にまで加増された。数直の死後、第2代藩主の土屋政直のとき、駿河田中藩へ移封となる。
代わって、「知恵伊豆」で有名な松平信綱の五男松平信興が2万2000石で入る。しかし大坂城代に任じられたため、短期間で摂津に領国を移封となる。
その後、再び土屋政直が駿河田中から6万5000石で再任される。以後は土屋氏10代の支配が続いて、明治時代を迎えた。ちなみに土屋政直は、徳川綱吉徳川家宣徳川家継徳川吉宗の4代にわたって老中として仕え、6万5000石の所領を9万5000石まで拡大した。
第9代藩主土屋彦直は隣藩の水戸藩徳川治保の三男、第11代藩主土屋挙直は治保の孫の徳川斉昭の第17子である。そのため、幕末期は佐幕派・討幕派の間で苦慮した立場にあった。  (wikipedia・土浦藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央に土屋保三郎(土屋寛直)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央左に土屋采女正(土屋寅直)上屋敷が描かれています。]

東京都立図書館アーカイブ – 元治再刻飯田町駿河台小川町絵図(慶応元[1865]再刻)」(土浦藩土屋家上屋敷跡が幕末に歩兵屯所になっています。)

カメラ位置は靖国通り/千代田通り交差点で、カメラ北東方向、駿河台道灌道までの扇形の一画が土浦藩土屋家上屋敷跡になります。