大野藩土井家上屋敷跡

マーカーは大野藩土井家上屋敷跡です。

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大野藩土井家
[大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。
1682年(天和2年)、幕府初期の大老土井利勝の四男の土井利房下野国内から封じられた。利房は天和3年(1683年)閏5月25日に死去したが、その後の土井家の藩主によって藩政の基礎は固められた。天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫した。このような中で第7代藩主・土井利忠は財政再建を主とした藩政改革に取り組んだ。生産性の向上・教育制度の普及・有能な人材の登用・藩借金の整理などを行なった結果、改革後8年にして利忠は借金を処理することに成功した。安政5年(1858年) 幕府より北蝦夷地開拓の許可を得た。大野丸完成。利忠は藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励など、積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君であった。
江戸後期の大野藩は、特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心であった。石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋の学問を学んだ。これらの洋書および翻訳の和書は、現在は福井県立大野高等学校に所蔵されている。
文久2年(1862年)に利忠が病で隠退した後はその三男・土井利恒が藩主となる。利恒は明治2年(1869年)の版籍奉還で大野知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大野藩は廃藩となって大野県となる。  (wikipedia・大野藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央左端に土井能登守(土井利忠)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は外堀通り/観音坂下交差点でカメラ北東方向道路の間が大野藩土井家上屋敷跡になります。