府内藩大給松平家上屋敷

マーカーはカメラ位置です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP752・コマ番号420/553から府内藩屋敷の変遷について記載されています。P753・コマ番号420/553「上屋敷 筋違橋内」がこの地になります。

府内藩大給松平家
[府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。
豊後府内は大友氏の居城であったが、大友吉統文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉の怒りを買って改易された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主の竹中重利ははじめ西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康から賞されて高田1万石から府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。重利の跡は子の重義が継いで徳川秀忠の寵を得たが、罪を得て改易された。

代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、明暦2年(1656年)に無嗣改易された。その後、吉明の義理の甥(正妻の兄弟の子)にあたる大給松平家豊後高松藩松平忠昭が2万2200石と徳川幕府天領の管理を受け明暦4年(1658年)2月24日に入封。以後は大給松平家が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。  (wikipedia・府内藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央上に松平主膳正(松平近義)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央左端に松平左衛門尉(松平近説)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置周辺が府内藩大給松平家上屋敷跡になります。