曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居跡

マーカーは曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居跡案内板です。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居跡
[『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』・『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』などを著わした滝沢馬琴は、江戸時代戯作者げさくしゃとして有名です。
彼は、千代田区内に2ヶ所の足跡を残しています。
旗本松平信成の家臣の子(滝沢馬琴誕生の地)として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(千代田区九段北1丁目5)の下駄屋会田家(滝沢馬琴の硯の井戸跡)の養子となり、戯作者としての道を歩み始めます。
文政元年(1818)になると、息子宗伯が母と妹を連れて、当時、神田明神石坂下の同胞町東新道どうほうちょうひがしじんみちと呼ばれていたこの地に転居してきます。
ここは、西丸書院番士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する50坪の土地で、16坪の家屋が建っており、そこで暮らしました。
のち、文政7年(1824)には、飯田町の下駄屋を婿養子に継がせ、馬琴もここに引っ越してきます。
隣家を買収し、80坪の敷地として、書斎や庭園を設けています。
外神田に住んだ時期の作品としては、大内・陶すえ・毛利の物語をまとめた『近世説美少年録きんせいせつびしょうねんろく』や、楠・新田氏による南朝再興の物語をまとめた『開巻驚奇侠客伝かいかんきょうききょうかくでん』などがあります。
馬琴は、天保7年(1836)70歳の時四谷信濃坂に転居するまでの12年間を、ここで暮らしました。
平成17年3月 千代田区教育委員会]

曲亭馬琴(滝沢馬琴)
[曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) – 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、瀧澤興邦)で、後に解(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。
滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。現在確認できる限り本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。馬琴自身は「曲亭馬琴」という筆名について、中国の古典から取ったと説明している。しかし「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味であるとも指摘されている。幼名は春蔵のち倉蔵(くらぞう)、通称は左七郎(さしちろう)、瑣吉(さきち)。著作堂主人のほか、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの別号を持った。  (wikipedia・曲亭馬琴より)]

滝沢馬琴誕生の地」、「滝沢馬琴の硯の井戸跡」、「滝沢馬琴終焉の地

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図左上・此邊明神下ト云の下、大岡豊後守の右方向が曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居となります。

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二」(2/3、3/3の下中程・神田明神下通の上、大岡兵庫の左に橋本喜八郎が表示されています。その場所が曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居となります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四」(95/206の右ページ右端・神田明神下通の左、大岡兵庫の下に橋本喜八郎が表示されています。)

滝沢馬琴住居跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向に曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居跡の案内板があります。

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