淀藩稲葉家上屋敷跡

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淀藩稲葉家上屋敷
[淀藩(よどはん)は、山城国久世郡(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。
元和9年(1623年)、松平定綱遠江掛川藩より3万5000石で入ったことにより、淀藩が立藩した。これは、先年に廃藩となった伏見藩に代わって、新たに京都を防備するために立てられたものである。定綱は淀城の築城に尽力した。ちなみにこの淀城は、かつて豊臣秀頼の生母であった淀殿の居城で知られる淀城(淀古城)とは場所が異なると言われている。定綱は、1633年(寛永10年)3月に美濃大垣藩に移された。
伊勢亀山藩より石川憲之、美濃加納藩より松平光煕、伊勢亀山藩より松平乗邑と続き、享保8年(1723年)稲葉正知が10万2000石で入ることで、ようやく藩主家が定着した。
以後、稲葉家の支配によって明治時代を迎えることとなる。
稲葉家は10万2000石という大領ではあったが、その所領は山城のほかに摂津河内近江下総越後などに分散しているという不安定さで、山城にあった所領は2万石にも満たなかったと言われている。このため、藩政においても財政基盤の脆弱さから人夫の徴発さえままならず、財政は苦しかった。第7代藩主稲葉正諶は、天明4年(1784年)に越後の所領を和泉や近江に移したが、これにより所領10万2000石は7カ国に分散することとなり、全くの逆効果を招いた。
また、稲葉氏の歴代藩主は短命な者が多く、享保年間には4人の藩主が相次いで死去している。
稲葉氏の歴代藩主の中で最も有名なのは第12代(最後)の藩主・稲葉正邦である。正邦は幕末期の動乱の中で老中を2度務め、板倉勝静小笠原長行らと共に活躍した人物である。しかしその江戸詰め中に戊辰戦争鳥羽・伏見の戦いが起こり、旧幕府軍が朝廷によって朝敵とされたため、淀城の城代は敗走する旧幕府軍に城門を開かなかった。これが鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北の一因とされ、この時期を扱った一部の時代小説には淀藩を罵倒軽蔑する記述も見える。
正邦は旧幕府瓦解時の老中であったため、新政府の命令で同年3月に謹慎処分となったが、閏4月には許されて京都警備を任されている。翌年の版籍奉還により知藩事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で免官された。  (wikipedia・淀藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央に稲葉丹後守(稲葉正備)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央左に稲葉長門守(稲葉正邦)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は靖国通り小川町交差点で、交差点東側を含む、カメラ北北西方向、お茶の水仲町通りまでの一画が淀藩稲葉家上屋敷跡になります。