生実藩森川家上屋敷跡

マーカーは生実藩森川家上屋敷跡です。

関連リンク – 生実藩森川家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP441・コマ番号265/553から生実藩上屋敷の変遷について記載されています。第9代藩主・森川俊民若年寄を辞職後、龍ノ口にあった上屋敷が安政二年十月に上地となり、小川町神田区猿楽町に屋敷地を拝領しています。]

生実藩森川家
[生実藩(おゆみはん)は、下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区生実町および同市緑区おゆみ野)に存在した藩。藩庁は生実陣屋に置かれた。房総の諸藩のうちで、転封がなかった数少ない藩の一つである。
「生実」は元々「小弓」と書かれ、戦国時代初期に古河公方の後継者争いに敗れた足利義明千葉氏の重臣原氏の居城だった小弓城を奪って居城とし、「小弓公方」を名乗って房総一帯を制圧したが、第一次国府台合戦北条氏綱に討ち取られて滅亡している。後に原氏が旧領に復帰して地名を「生実」と改めたが、小田原の役で没落した。
寛永4年(1627年)2月、上総相模・下総国内においてそれぞれ1万石を与えられて大名となった森川重俊は、生実藩を立藩した。重俊は慶長19年(1614年)の大久保忠隣失脚に連座して改易されていたが、その後赦免されて大名となった。領地は下総国葛飾匝瑳郡、上総国武射郡長柄郡、相模国大住郡鎌倉郡内にそれぞれあった。重俊はその後、老中にまで栄進したが、寛永9年(1632年)1月25日、徳川秀忠の死後に殉死した。代わって森川重政が跡を継ぐが、年貢負担をめぐっての争論が起きるなど藩が混乱した。寛文3年(1663年)1月23日に死去し、跡を森川重信が継ぐ。重信は元禄5年(1692年)6月27日に隠居して家督は森川俊胤が継いだ。俊胤は大番頭・奏者番寺社奉行を歴任し、幕閣において活躍した人物である。第8代藩主・森川俊知は西の丸若年寄に栄進し、藩政においては財政再建のために家臣団俸禄の減少などを行なったが効果は無く、逆に百姓の利八に直訴される有様であった。第9代藩主・森川俊民は天保9年(1838年)8月9日に俊知が死去した後、家督を継いだ。そして大番頭・奏者番・若年寄を歴任している。
最後の藩主となった森川俊方は、戊辰戦争では新政府側に与した。翌年の版籍奉還で俊方は知藩事となる。  (wikipedia・生実藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 元治再刻飯田町駿河台小川町絵図(慶応元[1865]再刻)」(絵図中央左に森川内膳正(森川俊方)上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左に堀田備中守(堀田正睦)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は靖国通り/錦華通り交差点で、カメラ西北西方向一画が生実藩森川家上屋敷跡になります。この地には生実藩森川家上屋敷が移転する前は浜松町に移転した佐倉藩堀田家上屋敷がありました。佐倉藩堀田家上屋敷跡地の南半分を生実藩森川家上屋敷として拝領しています。北側は講武所開設により上地となった今治藩松平(久松)家が上屋敷として拝領しています。