マーカーは蕃書調所跡の案内柱と説明板です。
蕃書調所跡
[幕府によって設立された洋学研究機関です。嘉永6年(1853)のペリー来航(黒船来航)以後、洋式軍事技術導入や外交上の要請から時の老中阿部正弘のもとで開設が計画されました。安政3年(1856)九段下の竹本主水正屋敷にて業務を開始、その後小川町、一橋門外へ移り、明治維新後は大学南校となり、東京大学へと発展しました。当初、聴講生は幕臣旗本の子弟でしたが、諸藩士、一般有志の聴講も許されました。創設にあたっては、官学最高の地位にあった儒学者の林大学頭(林復斎)から横やりが入り、「野蕃」の字が付けられたといわれています。 (千代田区観光協会ホームページより)]
[蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)は、1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つ。
ペリー来航後、蘭学に止まらない洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、1855年(安政2年)、「洋学所」[小川町火消屋敷跡(現神田神保町1丁目あたり)]を開設した。しかしこれが開設直後の安政の大地震[安政2年10月2日(1855年11月11日)]で全壊焼失したため、1856年3月17日(安政3年2月11日)、「蕃書調所」と改称し、古賀謹一郎を頭取、箕作阮甫と杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六、木村軍太郎、市川斎宮、西周 (啓蒙家)、津田真道、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元を教授手伝として同年末(安政4年1月)に開講した。(教授手伝にはこの後坪井信良(安政4年)、赤沢寛堂(安政5年)、箕作秋坪(安政6年)、も加わる。)
幕臣の子弟を対象に(1858年(安政5年)以降は藩士の入学も認めた)、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当した。語学教育は降盛、書籍は次第に充実し、自然科学部門も置かれた。1862年(文久2年)には学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となった。同年6月15日(5月18日)、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌1863年10月11日(文久3年8月29日)、「開成所」(開成所跡)と改称された。
前身である洋学所は神田小川町に所在していたが、これが壊滅したため、蕃書調所は新たに九段坂下に講舎を新築し開講した。その後井伊直弼政権期には洋学軽視政策の影響で、1860年(万延元年)、小川町の狭隘な講舎に移転されたが、1862年(文久2年)に一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の広大な校地に移転、これが後身機関である開成所・開成学校・東京大学法理文三学部に継承された。最初に蕃書調所が置かれた九段坂下(現在の九段南)には「蕃書調所」跡の碑が建立されている。
九段南の「蕃書調所跡」の碑 / 1856年(安政3年)開設時の所在地に建立・wikipedia-photo (wikipedia・蕃書調所より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図中央左上・表神保小路上の定火消役屋敷水野監物屋敷地に安政2年(1855年)「洋学所」が開設されましたが、開設直後「安政の大地震」で全壊焼失し、安政3年(1856年)、絵図中央右方向九段下に竹本主水正と記述の場所に「蕃書調所」として開設しました。その後、万延元年(1860年)その場所から下方向・岩城伊予守の左、勘定奉行役屋敷松平河内守に移ります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 安政改正御江戸大絵図(出版年月日・安政5 [1858])」(コマ番号3/6・絵図四つ切右下、「田安御モン」右方向「九タン」下に「蕃所」と描かれています。後に絵図上方向「岩城イヨ」上屋敷の右の「カン奉行」地に移転します。)
「国際日本文化研究センター – 飯田町駿河臺小川町繪圖(安政7年・1860年改正)」(絵図四つ切右下「岩城修理太夫上屋敷」左に「蕃書調所」が描かれています。「蕃書調所」は1862年一ツ橋門外に移転して「洋書調所」さらに、「開成所」と改正された。この「蕃書調所」の場所は改正版元尾張屋清七文久3年改正では「新見豊前守(正興)」屋敷となっています。)
「東京都立図書館 – 増補改正飯田町駿河台小川町絵図(嘉永2[1849]/文久3[1863]改正)」(絵図四つ切右下「岩城修理太夫上屋敷」左に「新見豊前守」が描かれています。絵図中央上「三番御火除地」右に「蕃書調所」が描かれています。)
カメラ南南東方向・交番(※麴町警察署 九段下交番は南後方に移転)右に蕃書調所跡の案内柱と説明板があります。