講武所跡

マーカーは講武所跡案内板です。

関連リンク – 軍艦操練所跡(紀州徳川家下屋敷跡、講武所跡・玉川上水樋管)

講武所跡
[講武所(こうぶしょ)・講式場は、幕末江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。諸役人、旗本御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。はじめ江戸の築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、のちに神田小川町に移転する。相次ぐ外国船の来航や、列強の近代的軍装に刺激された幕府の幕政改革・軍制改革に伴い、ペリーの第2回次来航があった嘉永7年5月(1854年、安政元年)に、男谷信友(精一郎)の提案により阿部正弘安政の改革の一環として、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作った。正式には、安政3年(1856年)に講武場として築地に発足。まもなく築地は軍艦操練所[軍艦操練所跡(案内板)・築地]となり、同年4月に軍備増強の一環として幕府が創設した講武所を改組。万延2年(1861年)に現日本大学法学部図書館のある水道橋内三崎町三丁目の地に講武所を建設し武芸の講習所とし、慶応2年(1866年)11月には廃止。陸軍所に吸収されて砲術訓練所となる。明治23年(1890)には、陸軍練兵場(旧・講武所)が三菱社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発が行われる。劇場の三崎三座(東京座、三崎座、川上座)や神田パノラマ館ができ、日本法律学校(現・日本大学)も移転した。
講武所は、弓術・砲術・槍術・剣術・柔術部門に分かれ(のちに弓術部門と柔術部門は廃止)、総裁2名、各部門に師範役が1名ずつ、そしてその下に教授方が置かれていた。教授には、幕臣の高島秋帆下曽根信敦・男谷信友・勝海舟榊原鍵吉・窪田清音・伊庭秀業大村益次郎(村田蔵六)らがなった。  (wikipedia・講武所より)]

[町名由来板:神田三崎町(かんだみさきちょう)
設置年月日:平成15年9月26日
所在地:神田三崎町二丁目5番
およそ四百年前、江戸幕府が開かれるころまで、この界隈(かいわい)は三崎村(みさきむら)と呼ばれていました。
当時、現在の大手町から日比谷や新橋周辺は、日比谷入江(いりえ)という遠浅の海でした。三崎村はこの日比谷入江に突き出た土地の端にあったため「ミサキ」の名が付けられたと伝えられています。
やがて、家康をはじめとする歴代の将軍が城下町としての開発に力をそそぎ、入江や湿地帯は埋め立てられました。そしてここは、大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶ町に変わり、江戸時代を通じて小川町(おがわまち)と呼ばれていました。安政(あんせい)六年(1859年)ごろには、伊予今治(いよいまばり)藩松平家の屋敷とその周辺に幕府の講武所(こうぶしょ)が設けられ、武芸の訓練が行われました。
明治五年(1872年)、東京の多くの町が新町名へ変更した際に、この界隈も三崎町と改称されました。明治二十三年(1890年)には、陸軍練兵場(旧・講武所)が三菱社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発が始まりました。その後、劇場の三崎三座(東京座、三崎座、川上座)や神田パノラマ館ができ、日本法律学校(現・日本大学)も移転してきました。
昭和二十二年(1947年)、神田区麹町区が合併して千代田区となり、このとき旧神田区の町がいっせいに神田を冠称したため、三崎町も「神田三崎町」となりました。ところが、昭和三十七年(1962年)、住居表示により神田三崎町の名前が消える話がもちあがりました。そのとき、長いあいだ親しんだ町名が消えてしまうのを惜しんだ地域の人々は、町をあげて運動を展開し、その名前を残すことに成功しました。
こうして三崎町という、むかしからの由来をもつ町名が現在に引き継がれているのです。  (「町名由来板:神田三崎町(かんだ … – 千代田区ホームページ」より)]

講武所跡資料リンク
東京都立図書館アーカイブ – 元治再刻飯田町駿河台小川町絵図(慶応元[1865]再刻)」[絵図下中央に「講武所」が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」(コマ番号3/6・絵図四つ切左下「陸軍所」に「講武所」がありました。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区飯田町及小石川区小石川町(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央右・陸軍練兵場の右半分が講武所跡になります。)

講武所跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南南東方向に千代田区教育委員会の案内板があります。

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