護持院ヶ原(神田上水樋管)

マーカーは錦町河岸交差点です。

護持院ヶ原
[江戸城の北、平川門と竹橋の対岸にあった護持院ヶ原は、市民の遊観所として使われていた。
また、護持院ヶ原の仇討の舞台としても知られる。
護持院という大寺院があったのが、享保二年に小石川馬場辺から出た火に延焼。焼失した後の焼け跡は、火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた。跡地は、江戸時代を通じて建物を建てず、空地として残した。おそらく江戸城に対する火除地の機能をもたせたと思われている。またほかに将軍の放鷹の場とされていて、空地を一番二番三番四番と分けて、数条の堀をほっていた。一番原は文化十四年より本多忠升の屋敷となったが、他は幕末まで残っていた。放鷹は冬にされ、二月から八月までは、周辺の人たちに開放された。「神田橋外一ッ橋外、明地之近辺屋敷屋鋪ノ妻子、延気二罷出候儀、二月中旬ヨヅ八月中旬迄ハ勝手次第、出ヅ可キ候。此外町人等モ妻子召連、延気二参候ハ苦シカラズ候。」と『憲教類典』(享保八年)に達せられている。武家屋敷の中にあったこととて、まず武家の妻子を対象とし、町民も遊んでも苦しくないという形となっている。明治維新後は、学習院、開成学校などの校舎がこの地に建造された[6]。『武江年表』の明治三年の項によると、「錦町の西には一番より三番までの火除明地あり。昔、護持院のありし跡にて、毎春近傍の者はここに遊観し、児輩は摘草などして戯れしが、この頃追々に御用に付き、建物御設あり、華族学習院開成所等も此所なり」と書かれている。
享保年間から幕末まで遊観所として、士民に親しまれてきた護持院ヶ原も、明治政府によって建物の敷地になってしまった。このことはちょうど品川の御殿山が享保年間から名所として開放された遊観所(公園)でありつづけながら、明治政府によってつぶされてしまったのと同じ状況であった。
護持院ヶ原は面積も広くて、『東京案内』によると神田錦町一丁目、二丁目、三丁目一橋通町を占めていた。文化十四年に一番原が屋敷になるまでは、日比谷公園よりかなり広い地域を占めていた。四番原すなわち後の一橋通町にできたのが、高等商業学校、現在の一橋大学である。
護持院
護持院(ごじいん)は江戸の神田橋外(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺院。奈良県桜井市長谷寺の一派であっ。
元禄元年(1688年)、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉湯島にあった知足院を移し、隆光開山として、護持院と改称したことに始まる。
享保2年(1717年)、火災により焼失し、音羽護国寺の境内に移された。  (wikipedia・護持院より)]

神田上水樋管
神田上水留. [12] 神田上水神田橋外弐番三番四番明地掛樋枡御修復一件 弘化三(1846)午年五月 御普請方」(16,17/104・弐番三番四番明地への神田上水樋管が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五年(1808)調」(コマ番号2/4・絵図右側に「御火除地」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央上・一ツ橋御門下に一番、二番御火除地、一番の左に三番御火除地が描かれています。絵図の二番御火除地にかって護持院があり、幕末に騎兵当番所となった。また、三番御火除地の北側は開成所(後に外国語学所と改称し、その後東京外国語学校東京大学となる)となった。]

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上・東京外国語学校部分が開成所跡で三番御火除地になります。東京大学の下部分が一番御火除地、学習院の部分が二番御火除地になります。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「護持院原」(1-51)、「護持院原解説・左ページ中程」(1-48)

カメラ位置は一ツ橋河岸交差点です。カメラ北方向・左が切絵図の三番御火除地、右が切絵図の一番御火除地になります。

カメラ位置は錦町河岸交差点で、切絵図の二番御火除地の西側になり、カメラ北方向右側に護持院・騎兵当番所があったようです。

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