豊島屋本店

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豊島屋本店
[慶長元年(1596年)、常陸国出身の初代豊島屋十右衛門が鎌倉河岸神田橋辺、現在の内神田二丁目2-1で酒屋を創業した。鎌倉河岸は江戸城普請のための荷揚場として建造され、石材が鎌倉を経由して運び込まれた、或いは普請の職人に鎌倉出身者が多かったことから名付けられた。豊島屋はこうした普請に関わる職人などを対象に下り酒を安価で提供した。享保の改革により庶民が不況に喘いだ元文或いは宝暦頃、豊島屋は徹底した薄利多売により利益を得た。酒自体は原価の8文で売り、空き樽を1割弱で引き取ってもらうことで儲けを出した。「豊島屋で又八文が布子を着」の句が残る。また、酒の肴として特大の豆腐田楽を1本2文という破格の値段で売り、赤味噌を塗って酒が進むように仕掛けた。田楽はその大きさから馬方田楽と呼ばれ評判となり、「田楽も鎌倉河岸は地者也」と詠われた。酒と一緒に酒の摘みを出した点で、豊島屋は居酒屋の原型の一つとされることがある。節季払いで一度に入る収入を利用して金貸し業も営んだ。これらの経営努力のもと、幕府勘定方により御用商人に取り立てられ、江戸商人十傑にも列せられた。鎌倉河岸には創業店十右衛門のほかにも、畳などを扱う甚兵衛、瀬戸物を扱う鉄五郎などが並び、豊島屋河岸とも呼ばれた。豊島屋は白酒の元祖として有名で、江戸時代に「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われた。十右衛門の夢枕に紙雛が現れ、白酒の製法を伝授され、桃の節句前に売り出したところ飛ぶように売れたという。桃の節句に白酒を飲む風習は豊島屋が発祥である。これにより女性や大名などの新たな顧客を開拓した。毎年桃の節句前の2月25日に行われた白酒の大売出しでは江戸中から人が押し寄せ、風物詩となった。この様子は長谷川雪旦の『江戸名所図会』「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」に詳しく描かれている。「酒醤油相休申候」の看板を掲げ、当日は他の商品は販売しなかった。あらかじめ切手を買わせ、左側の扉を入口、右側を出口とし、一方通行に並ばせた。入口上には櫓を設け、気分が悪くなった客のために屋根上に鳶と気付け薬を持った医者を待機させた。白酒は昼頃には売り切れ、1,400樽が空き、売上は数千両に上ったという。  (wikipdia・豊島屋本店より)]

豊島屋酒造
[豊島屋酒造(としまやしゅぞう)は、東京都東村山市久米川町に工場を、東京都千代田区猿楽町に本社を置く日本の酒造会社である。現在、東京にて伝統を守っている10軒の酒造業者の一つである。
1596年(慶長元年) – 江戸の神田の鎌倉河岸(かまくらがし)で、初代・豊島屋十右衛門が酒屋兼一杯飲み屋の商いを始める。同時に、白酒の醸造を始めた。昭和初期、現在地、東京府北多摩郡久米川村(現・東京都東村山市久米川町)に、豊島屋酒造を設立し、「金婚」、「金婚正宗」ブランドの日本酒を醸造販売する老舗酒造メーカーである。
「金婚」、「金婚正宗」の由来 – 「金婚」は、明治天皇の銀婚式をお祝いする願いを込めて命名した。「金婚正宗」は、明治神宮、神田明神の御神酒として納められている、唯一の酒である。
「屋守(おくのかみ)」の由来 – 豊島屋酒造を守り続け、酒販店や料飲店の繁栄を守るような商品を醸し続けるとの思いから銘名した。
仕込み水 – 豊島屋酒造では、武蔵野台地の地下、深さ150mから汲み上げた水を、仕込み水として使用している。  (wikipedia・豊島屋酒造より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「鎌倉町豊島屋酒店」(1-50)
鎌倉町豊島屋酒店(拡大図)

狂歌江都名所図会 – 豊島屋(拡大図)

豊島屋本店 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向角が豊島屋本店です。

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