安中藩板倉家上屋敷跡(開成所跡・学士会館)

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マーカーは東大発祥の地の石碑です。

安中藩板倉家(新島襄誕生之地)
[同志社大学の創立者として知られる新島襄先生は、上野国(群馬県)安中藩三万石、板倉伊予守の家臣の子として藩上屋敷(現在の神田錦町、学士会館付近)で生まれました。長じて藩士となり蘭学を修めましたが、元治元年(1864)脱藩し密航し米国に渡りました。米国で洗礼を受け、アマースト大学を卒業しました。明治維新の後、岩倉具視遣外使節(岩倉使節団)に随行し、各国の教育制度を調査しました。帰国後、京都を拠点に伝道活動に励み、明治8年(1875)年同志社英学校、同10年(1877)年同志社女学校を創立しました。引き続き大学設立を目指し尽力中に明治23年(1890)にその生涯を閉じました。例年2月12日の生誕日には、生誕地近郊の学士会館で生誕祭りが行われています。  (「千代田区観光協会-新島襄先生誕生之地」より)]

開成所跡
[開成所(かいせいじょ / かいせいしょ)は、文久3年(1863年)設置された江戸幕府の洋学教育研究機関である。幕府の洋学教育研究機関であった洋書調所(安政3年設置の蕃書調所(蕃書調所跡)を文久2年に改称)の組織を拡充、文久3年8月29日(1863年10月11日)「開成所」として設置された。「開成」という言葉は、中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくといわれる。翻訳学問だけでなく、みずから学を実務に繋いでいくという意図を込めたものである。幕府の崩壊により閉鎖されたが、慶応4年6月13日(1868年8月1日)の布告により医学所とともに明治新政府に接収され、同年(明治元年)9月12日(10月27日)、官立の「開成学校」として再興した。開成学校はのち医学校(医学所の後身)と統合され(旧)東京大学が発足したため、開成所は現在の東京大学の源流と見なされている。  (wikipedia・開成所より)]

学士会館
[東京大学は明治10年(1877)、東京開成学校と東京医学校が合併して当該地一帯に開設され、明治18年(1885)までに本郷に移転しました。学士会は明治19年(1886)創立の旧帝国大学出身者の同窓会です。現在の建物は昭和3年(1928)に竣工し、学士会事務局以外に会議室、結婚披露宴会場、ホテル、レストランとしても利用されています。
 SRC造による関東大震災後の復興建築で,玄関の半円大アーチやスクラッチタイルの外観,窓廻り2・3層の直線基調と4層の曲線基調の対比などに特徴があります。設計は東京駅の構造設計などを担当した佐野利器氏と帝国ホテルの設計を担当した高橋貞太郎氏。
 平成15年に国の登録有形文化財に登録されました。
また、この地は日本野球発祥の地でもあります。このほか、敷地内には同志社大学の創設者である新島襄生誕地の碑があります。  (「学士会館 – 千代田区観光協会」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」[絵図中央上・一ツ橋御門下に一番、二番御火除地、一番の左に三番御火除地が描かれています。絵図の二番御火除地にかって護持院があり、幕末に騎兵当番所となった。また、三番御火除地の北側は開成所(後に外国語学所と改称し、その後東京外国語学校東京大学となる)となった。また、一ツ橋御門下方向の板倉伊予守が安中藩板倉家上屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五年調」(コマ番号2/4・絵図四つ折右下に「板倉伊予守」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」(コマ番号3/6・絵図中央付近に「板倉伊予守」その下に「開成所」が描かれています。)

東京大学発祥の地 – Google Map 画像リンク」、「新島襄生誕地 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向に東大発祥の地の石碑が、その左に説明版が設置されています。学士会館と西側の共立女子大の場所が開成所跡です。また学士会館を含む一画が安中藩板倉家上屋敷跡になります。

カメラ北北東方向に同志社創立者・新島襄 生誕の地碑があります。

学士会館内のストリートビューです。

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