高岡藩井上家上屋敷跡

マーカーは高岡藩井上家上屋敷跡です。

高岡藩井上家
[高岡藩(たかおかはん)は、下総国高岡村(現在の千葉県成田市高岡)に存在した藩。
譜代井上家宗家の当主である井上正就の弟・政重徳川秀忠家光の2代に仕えて大坂の陣などで功績を挙げ、御書院番士・大目付(当時は総目付という名称)などを歴任して次第に加増を受け、島原の乱でも戦後処理などで功を挙げた。こうした功績によって寛永17年(1640年)6月12日、政重は6000石を加増されて1万石を領する大名として高岡藩を立藩した。ただし、当時は高岡に陣屋は築かれず、江戸定府していた。政重はその後もキリシタンの取締りのために宗門改役を設置し、長崎出島における交易制限を行なうなど、鎖国体制の確立に尽力した。この功により寛永20年(1643年)5月23日、3000石を加増された。政重は万治3年(1660年)7月9日に、加齢を理由として家督を井上政清に譲って隠居する。
第2代藩主・政清のとき、弟の井上政則に1000石、井上政明に500石を分与したため、高岡藩領は1万1500石となる。第3代藩主・井上政蔽のとき、高岡に陣屋が築かれた(高岡陣屋)。また、弟の井上政式に1500石を分与したため、高岡藩領は1万石となった。
高岡藩は尾張藩とつながりが深く、第6代藩主・井上正国徳川宗勝の十男、第7代藩主・井上正紀は尾張藩の付家老家である竹腰勝起の次男である。第10代藩主・井上正和文久2年(1862年)に江戸藩邸内に藩校学習館を創設した。儒学者朝川善庵門人の随朝などが教授し、藩士だけではなく庶民の入学を許可した開放的な藩校であった。
譜代井上家は他に常陸下妻藩主家もあり、みな明治維新を迎えている。
最後の藩主・井上正順明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となる。  (wikipedia・高岡藩より)]

国際日本文化研究センター – 飯田町駿河臺小川町繪圖(安政7・1860年)」[絵図中央上に井上筑後守(井上正和)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は一橋通り/さくら通り交差点で、カメラ南東方向、共立女子大学・共立女子短期大学 入試事務室手前までの一画が高岡藩井上家上屋敷跡になります。