マーカーは高田藩榊原家上屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP562・コマ番号325/553から高田藩屋敷の変遷について記載されています。P563・コマ番号325/553「上屋敷 小川町一橋外」がこの地になります。
高田藩榊原家
[高田藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。
徳川譜代の名門榊原家の当主であった播磨国姫路藩主の榊原政岑は、江戸吉原遊廓での豪遊などを咎められ、将軍徳川吉宗の政策に反するとして強制隠居させられた。改易は免れたものの、跡を継いだ榊原政純は懲罰として姫路から高田に移された。
石高は同じ15万石だったが、実際には陸奥国にある飛び地を含めたものであり、額面どおりの収入を得ることは非常に困難で、姫路と高田の商業規模などを考えても収入は減ったであろうことが推測され、財政が悪化したといわれている。名君として知られた榊原政令の時代には、他藩の事情などもあり、飛び地分を隣接地に付け替えられることに成功し、藩財政は以前より安定した。
その後、榊原家6代(実際には7代)の支配を経て明治維新を迎える。戊辰戦争では当初、態度を曖昧にしていたが、官軍が迫ると隣接の幕府領にいた幕府側の歩兵隊を追放し、恭順の姿勢を示した。その後、長岡・会津討伐の先鋒を命じられ、東北各地を転戦した。恭順を拒否した藩士は脱藩して神木隊を組織し、後に彰義隊に合同した。戊辰戦争終結後、降伏した会津藩士1742名の御預を命じられる。藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士についても新政府からの給費がごくわずかであったため、藩庫から多くの金穀を補填し、彼らを手厚く待遇した。御預中に死亡した会津藩士の墓地は「会津墓地」と呼ばれて現存し、今も有志の手によって護持されている。 (wikipedia・高田藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央右下に、榊原式部大輔(榊原政敦)が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左上に榊原式部大輔(榊原政愛)上屋敷が描かれています。
カメラ位置は白山通り・日本野球発祥の地碑前交差点で、カメラ北東方向千代田通り先までが高田藩榊原家上屋敷跡になります。