マーカーは高遠藩内藤家上屋敷跡です。
関連リンク - 高遠藩内藤家下屋敷跡(新宿御苑)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP569・コマ番号328/553から高遠藩屋敷の変遷について記載されています。P572・コマ番号330/553「上屋敷 小川町」がこの地になります。
高遠藩内藤家
[高遠藩(たかとおはん)は、信濃国(南信地方)伊那郡(現在の長野県伊那市)高遠に所在した藩。居城は高遠城。
鳥居家(鳥居忠則)改易後、高遠藩は廃藩となり、元禄4年(1691年)まで天領となった。その後、河内富田林藩より内藤清枚が3万3000石で入る。
第2代藩主・頼卿の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。正徳4年(1714年)3月の江島生島事件に関わり、高遠に流罪にされた絵島の身柄を預かっている。第3代藩主頼由は藩士に対して俸禄制を採用して財政問題解決に邁進した。第5代藩主の長好は幼少で藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠乗りや狩り、花火見物に視察などを繰り返して領民に負担をかけ、諸費用もかなりの額に上った。
第7代藩主・頼寧は博学多才で、産物会所設置による産業奨励、学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革に成功を収めた。幕政においても日米関係の上申書を提出したり、兵備を西洋式に改変して藩士に訓練させた。
安政6年(1859年)に最後の藩主となった内藤頼直は、藩校である進徳館の設立や長州征伐参加で活躍した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、北越戦争・会津戦争に参戦した。明治2年(1869年)の版籍奉還で、頼直は知藩事となる。 (wikipedia・高遠藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号2/4・絵図中央に、内藤大和守(内藤頼以)が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左に内藤駿河守(内藤頼寧)上屋敷が描かれています。
カメラ位置は千代田通り、神保町三井ビルディング北東で、カメラ東方向道路両サイド一画が高遠藩内藤家上屋敷跡になります。