蓮光寺

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マーカーは蓮光寺です。

蓮光寺
[浄土宗寺院の蓮光寺は、功徳院松翁院と号します。教蓮社尊誉上人露宿玄的大和尚(開基当戸田采女正厳高祖左門一西の三男)が開山、戸田采女正(法号正眼院殿法誉道心居士)が開基となり、慶長6年(1602年)湯島に創建、明暦の大火で罹災したため当地へ移転したといいます。大垣藩戸田家の墓所となっていた他、北方探検家の最上徳内儒学平野金華の墓があります。
最上徳内墓
江戸時代後期の北方探検家で、宝暦5年(1755)出羽国村山郡楯岡村(山形県村上市)に生まれた。天明元年(1781)江戸に出て官医山田宗俊の家僕となった。同3年(1783)本多利明の音羽塾に入って、天文・測量・地理・航海を学んだ。天明5年(1785)蝦夷地巡検使に従者として蝦夷沿岸を巡視、翌6年(1786)択捉島に上陸、さらに日本人として初めて単身得撫島に上陸した。寛政3年(1791)、同4年にも千島樺太の探検を重ねた。寛政10年(1798)には近藤重蔵らと共に択捉島に「大日本恵登呂府、寛政10年戌午7月、重蔵徳内以下十五人記名」の標柱をたてる。文政9年(1826)シーボルトを訪問。「日本北方に関する稀なる蘊蓄深き学者」と評される。天保7年(1836)9月5日83歳で歿した。(東京都教育委員会掲示より)
平野金華墓
江戸時代中期の儒学者で、名は玄沖、字は子和、金華は号で通称源右衛門といった。元禄元年(1688)陸奥国で生まれた。幼い時に孤児となり、親族の計らいで江戸に上り、荻生徂徠に就いて古文辞学を学んだ。生活に追われ書籍を買うことも出来ず、書架には「左伝」「礼記」「荘子」「通鑑」の抄書など数巻あるだけであったが、文章を縦横に駆使し、人びとを驚かせた。陸奥守山藩藩儒となった後も、端午の節句に新服を着るよう主君の命令があり、薄給のため妻の着物を着て出仕し、即日俸米を加増されたという。享保17年(1732)7月23日45歳で死去した。著書に「金華雑譚」「酈陽遺編」「古学範」などがあり、藩主松平頼寛(黄龍)は、自ら「金華稿冊」を編纂した。を文荘先生という。(東京都教育委員会掲示より)  (「猫のあしあと – 蓮光寺」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駒込絵図」(絵図四つ切の右上方向に蓮光寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [35]貮拾壹亨」(コマ番号3/7・絵図中央左高林寺の下に蓮光寺と記述されています。)

蓮光寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が蓮光寺山門です。

蓮光寺本堂前のカメラです。

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