三田藩九鬼家中屋敷跡(衆議院第二別館)

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関連リンク – 三田藩九鬼家上屋敷跡(国会議事堂敷地内前庭・都道府県の木)三田藩九鬼家下屋敷跡(明治学院礼拝堂・インブリー館・記念館)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP832・コマ番号460/553から三田藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 霞ヶ関」がこの地になります。

九鬼隆義
[九鬼 隆義(くき たかよし・天保8年4月5日(1837年5月9日)-明治24年(1891年)1月24日)は、丹波国綾部藩主・九鬼隆都の三男。安政6年(1859年)11月、摂津国三田藩第12代藩主九鬼精隆の急逝により、その養嗣子として跡を継ぎ、同年12月28日に叙任した。三田藩主に就くと藩政改革を断行し、下級藩士の白洲退蔵や小寺泰次郎の登用、スナイドル銃の使用など、藩兵の軍備洋式化を行なった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い直後から新政府に与して戦った。当初は、大政奉還に強く反対した佐幕派であったが、勤王派に転身した。
明治になってから隆義は、川本幸民を通じて江戸福澤諭吉と親密になり、藩士を慶應義塾に学ばせたり、慶應義塾の学校運営にも助言するなど晩年まで親密な関係となる。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免官された。明治5年(1872年)、近代港として発展が見込まれる神戸に居を移し、三田藩士の多くもこれに倣った。生田川付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得た。この資金を基に1873年(明治6年)3月、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、白洲退蔵や小寺泰次郎らとともに「志摩三商会」という神戸初の貿易商社を設立した。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町三宮といった神戸港周辺の都市開発や女子寄宿学校(神戸女学院の前身)・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼした。  (wikipedia・九鬼隆義より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央右方向に九鬼長門守上屋敷が、その右下方向に中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年(1861年) 調)」(コマ番号2/3・絵図四つ切左下、松平美濃守左下に九鬼長門守上屋敷、その下方向に中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は三年坂(栄螺尻)で、カメラ位置が三田藩九鬼家中屋敷表門付近になります。