マーカーは二本松藩丹羽家上屋敷跡です。
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二本松藩丹羽家
[二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国)安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城(霞ヶ城)。
加藤家改易後の寛永20年(1643年)8月2日、陸奥白河藩主であった丹羽光重が10万700石で入る。光重は織田信長の絶大な信任を受けた重臣で「米五郎左」と称された丹羽長秀の嫡男長重の嫡男であり、信長の重臣であったという名家の所以から、国主格の厚遇を受けることとなる。
丹羽家は長重の時代に関ヶ原の戦いで西軍に属して前田利長と戦い、戦後に改易されたが、徳川秀忠の取りなしと、長重正室の報恩院が信長の娘で秀忠正室の崇源院と従姉妹にあたる関係を重視されたものであり、長重は最終的に10万石の大名として復帰を果たした。このため、二本松城下に秀忠・家光父子の廟所を造営し、幕命による東海道などの川筋普請や日光東照宮・増上寺の修築普請を率先して勤め上げ、徳川将軍家に対する忠誠を最大至上とした。
藩政は初代光重の時代にほぼ確立され、二本松城や侍屋敷・城下町の整備、法制確立、学術の振興などが行われた。第2代藩主長次の時代から幕府の公役負担が重くのしかかり、歴代藩主はその負担に積極的に応じて二本松藩の財政は困窮した。このため第5代藩主高寛は、岩井田昨非を登用して享保の藩政改革を行った。第6代藩主高庸も岩井田を用いて藩政改革を行い、赤子生育法を出す。寛延年間に領内に一揆が起こり、年貢半減を約して収めるも、後に撤回した。また、同時期には凶作で4万2000石の被害を出している。第7代藩主長貴の時代にも、明和年間に大火事が起こり、天明の大飢饉で大被害を蒙った。このため寛政の藩政改革を行って、医療救助令や養老法を制定した。だが幕府の命令による美濃や伊勢の川普請の負担などもあり、財政は悪化する。
第9代藩主長富は藩校敬学館を設立し、家老の丹羽貴明を用いて藩政刷新を行う。文政年間には領内を巡察し、農村復興のために新年番名主制を定めて領内各村に総額3400両の救助金を出し、25人組制度の制定と倹約令を出した。しかし治世後半から長富は浪費癖が出て、藩内では賄賂政治が横行した。さらに天保の大飢饉で二本松は大被害を受け、幕府の普請負担などもあり藩政は行き詰まった。なお、安政年間に藩兵の訓練が行われている。
幕末期、第10代藩主長国は江戸湾警備、京都警衛、天狗党の乱鎮圧などで活躍した。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、各地で敗戦を重ねて明治元年(1868年)7月28日に長国は米沢藩に逃亡し、翌日に二本松城は落城した。長国は9月に降伏し、自身の隠居を条件として丹羽長裕(米沢藩主・上杉斉憲の子)が養嗣子として跡を継ぐことを認められた。なお、このときに5万石も減らされた。明治2年(1869年)の版籍奉還で長裕は二本松知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で二本松藩は廃藩となり二本松県となった。
なお、丹羽家治下の二本松藩では節分の時、「鬼は外」と叫ぶと「お丹羽外」に聞こえるとして、「鬼外」「おにそと」と「は」を抜いて唱えていた。 (wikipedia・二本松藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切右下に丹羽左京太夫(丹羽長富)上屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年(1861年) 調)」(コマ番号2/3・絵図四つ切右下に丹羽左京太夫(丹羽長国)と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[コマ番号56-57/87・ページ右下に丹羽左京太夫が描かれています。)
カメラ西南西方向は二本松藩丹羽家上屋敷跡に建つ衆議院第一議員会館です。