マーカーは仙台藩外桜田上屋敷跡案内板です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP944・コマ番号516/553から仙台藩屋敷の変遷について記載されています。P945・コマ番号516/553「中屋敷 外櫻田」がこの地になります。
仙台藩外桜田上屋敷跡
[江戸時代、全国の諸大名は幕府より江戸城下やその周辺に広大な居住地を与えられ、藩邸を設けていました。
仙台藩江戸屋敷は、慶長6年(1601年)、仙台藩祖伊達政宗が徳川家康より江戸屋敷を与えられたことが最初とされており、その際に与えられた屋敷が外桜田上屋敷です。外桜田上屋敷は政宗から三代綱宗の時代、慶長6年(1601年)から寛文元年(1661年)までの間、上屋敷(大名が江戸で居住し政務を行った屋敷)として使用されました。その敷地は、東西は新字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷掘沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定されています。
政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っています。
また、政宗は、寛永13年(1636年)年5月、ここで70年の生涯を閉じました。 (「仙台藩外桜田上屋敷跡(千代田区日比谷公園)|仙台市」より)]
[江戸では1657年(明暦3)に「明暦の大火」(振袖火事)があり、これによって江戸城下の約6割が焼失したため、災害対策として都市計画の変更を余儀なくされ、その一環として諸大名の屋敷替えが大幅に行なわれた。仙台藩の江戸屋敷も例外でなく各地に移転し、その結果江戸屋敷として記録にのこっているのは十数ヶ所に上る。
まず上屋敷であるが、当初の外桜田屋敷は今の日比谷公園の音楽堂周辺にあり、政宗から三代綱宗までの約60年間ここに存在した。政宗の時代には、家康が三度、秀忠・家光が各四度この屋敷を訪れており、政宗もここで生涯を閉じている。この上屋敷は明暦の大火のあと上地(返上)となり、代わりに麻布に屋敷が下賜された。当時麻布は江戸城下でも郊外に位置していたため、上屋敷の機能は一時的に江戸城に近い愛宕下の中屋敷に移された。 (「江戸・東京の中の仙台 – 七十七ビジネス振興財団ホームページ」より)]
資料リンク
「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」[御曲輪内(現在の皇居外苑)左に「松平陸奥」(伊達政宗)と描かれています。]
カメラ北北東方向が仙台藩外桜田上屋敷跡案内板です。