マーカーは伯太藩(野本藩)渡辺家上屋敷跡です。
関連リンク – 野本藩(伯太藩)渡辺家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP402・コマ番号245/553に伯太藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 永田馬場」がこの地になります。
伯太藩(野本藩)渡辺家
[伯太藩(はかたはん)は、かつて和泉国大鳥郡・和泉郡などを領有した藩。藩庁は和泉郡伯太村(現在の大阪府和泉市伯太町)の伯太陣屋。藩主は譜代大名の渡辺氏。藩領は和泉国の他に河内国と近江国に点在した。当初は藩庁所在地が異なり、大庭寺藩(おばでらはん)と称した。なお、本項では前身の野本藩(のもとはん)についても述べる。
野本藩初代藩主の渡辺吉綱は渡辺重綱(守綱の子)の五男で、尾張藩家老を務めた渡辺宗家(1万4千石。寺部陣屋)の分家筋にあたる。吉綱は江戸幕府第4代将軍徳川家綱の側用人を務めたのち、1661年(寛文元年)に大坂定番となり、河内・和泉両国に1万石を加増されて大名に列した。
吉綱の祖父で「槍半蔵」の異名で知られる渡辺守綱の代から、渡辺氏は武蔵国比企郡を中心に3千5百石を領していたことから、野本藩としての立藩となった。藩庁は比企郡野本村(現在の埼玉県東松山市上野本・下野本)の野本陣屋。2代藩主の渡辺方綱には嗣子がなく、渡辺宗家より渡辺基綱を養子に迎えた。
1698年(元禄11年)に武蔵国の所領を近江国へ移されたのを機に、基綱は和泉国大鳥郡大庭寺村(現在の大阪府堺市南区大庭寺)に陣屋を移し、大庭寺藩が立藩された。
1727年(享保12年)、基綱は陣屋を和泉国和泉郡伯太村に移し、伯太藩が成立した。表高は野本・大庭寺時代と同じく1万3千5百石で、以後9代にわたり在封した。
1871年(明治4年)の廃藩置県により伯太県となり廃藩となる。 (wikipedia・伯太藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図下中央に渡辺備中守(渡辺章綱)上屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年(1861年) 調)」(コマ番号2/3・絵図四つ切右下に渡辺丹後守(渡辺章綱)と記述されています。渡辺丹後守下には岡部筑前守、阿部摂津守屋敷が記述され、その間の道の左側が「岡部」の「部」、「渡辺」の「辺」、「阿部」の「部」から三べ坂と呼称されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[コマ番号56-57/87・渡辺大学頭、渡辺丹後守が描かれています。)
カメラ東南東方向は参議院議員会館北東棟で、伯太藩(野本藩)渡辺家上屋敷跡になります。