白河藩阿部家上屋敷跡(「この附近の江戸時代」案内板)

マーカーは「この附近の江戸時代」案内板です。

[北側のほぼ帝国ホテルに相当する区域には、寛永期当初は陸奥国仙台藩伊達家中屋敷があった。明暦の大火後、遠江国横須賀藩本多家上屋敷出羽国上山藩土岐家上屋敷に分割、天和2年(1682年)に備後国福山藩阿部家上屋敷、その後奏者番を務める者に順次受け継がれ、幕末には陸奥国白河藩阿部家上屋敷、後備中国松山藩板倉家上屋敷となった。明治初年には一時的に清水徳川家の手に渡った。  (wikipedia・内幸町より)]

白河藩阿部家
[阿部家が江戸屋敷を拝領した時期は不明であるが、寛永6年(1629)に阿部忠秋が和田倉に屋敷を拝領したことが確認できる。その後、同17年(1640)正能が小石川に屋敷を拝領している。寛文11年(1671)に忠秋は養子正能に家督を譲り、正能が西丸下屋敷を拝領した。正能は延宝元年(1673)に老中に就任したが、同4年10月に辞職し、同5年に西丸下屋敷は高家の大沢基恒へと移った。
天明元年(1781)9月に阿部家は堀田家の山下御門内の屋敷を拝領している。
元治元年(1864)7月に阿部正外が老中に就任し、前老中の板倉周防守勝静の西丸下の屋敷を当分拝借することとなった。  (「忍藩阿部家の江戸屋敷」より)]

[文政6年(1823年)武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入部する。以後は幕末まで阿部家が8代44年間在封した。幕末に分家の旗本(旗本阿部家)から本家を相続して第7代藩主となった阿部正外は間もなく老中となり、攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され、4万石を減封された。慶応2年(1866年)、第8代藩主の正静のとき棚倉藩に転封、白河藩領は二本松藩の預かり地となったため、戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となり、白河城は戦火によって大半を焼失した。慶応4年(1868年)2月、正静は白河藩に復帰したが、同じ年の明治元年12月、再び棚倉藩に転封となり白河藩は廃藩となった。以後天領(天皇御料地)となり、明治2年(1869年)8月に白河県が設置された。明治4年(1871年)7月の廃藩置県をはさんで同年11月に二本松県となり、その後に福島県へ編入された。  (wikipedia・白河藩より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図[出版年月日・寛文10(1670)刊]」[絵図中央付近・和田倉橋左上に「阿部豊後」(阿部忠秋)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850)」[絵図右上・阿部播磨守(陸奥白河藩阿部家阿部正外)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1863)」(コマ番号3/3・絵図右中「阿部播磨守」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号78/87(延宝年間・1673-1681)、79/87(貞享元年・1684) – 絵図上中央に土岐山城守(出羽上山藩土岐頼行)と本多越前守(遠江横須賀藩本多利長)が描かれています、コマ番号80/87(享保16年・1731) – 絵図上中央に阿部伊勢守(備後福山藩阿部正福)と描かれています。コマ番号81/87(文化5年・1808) – 絵図上中央に阿部鉄丸(武蔵国忍藩・陸奥国白河藩主阿部正権)と描かれています。コマ番号83/87(天保9年・1838) – 絵図上中央に阿部能登守(陸奥国白河藩阿部正瞭阿部正備)と描かれています。コマ番号85/87(文久元年・1861) – 絵図上中央に阿部播磨守(陸奥白河藩阿部正耆)と描かれています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション – 万寿御江戸絵図[出版年月日・慶応3(1867)年」[絵図中央付近・山下御門内に「あべぶんご」(阿部正外)上屋敷が描かれ、御曲輪内に阿部正外が老中就任時借用した「板倉いが」(板倉勝静)上屋敷が描かれています。]

カメラ西南西方向・帝国ホテル脇の歩道端に、「この附近の江戸時代」案内板が設置されています。

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