大和郡山藩柳沢家上屋敷跡(東京府庁跡・樋口一葉生誕の地)

マーカーは「樋口一葉生誕地」の碑です。

関連リンク – 神田御殿跡、柳沢吉保上屋敷跡郡山藩柳沢家中屋敷跡郡山藩柳沢家下屋敷跡(六義園)柳沢伯爵邸跡

大和郡山藩柳沢家上屋敷
[将軍徳川吉宗期の享保9年(1724年)、享保の改革における幕府直轄領拡大に際して、甲斐国甲府藩から柳沢吉里が15万1000石で入る。以降明治維新まで柳沢氏6代の支配を経ることになる。2代信鴻、3代保光は名君の誉れ高く、治世の安定、文武の興隆、殖産事業の発展に努めた。畿内の雄藩として禁裏の守護や京都奈良の防火活動などを行った。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に加わり、東北地方まで転戦した。
明治4年(1871年)、廃藩置県により郡山県となり、のち奈良県、奈良府堺県、大阪府を経て、再び奈良県が分離された。
最後の藩主となった柳沢家(柳沢保申)は明治17年(1884年)に伯爵となり、華族に列した。  (wikipedia・郡山藩より)]

柳沢吉里以降の上屋敷地資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・正徳5 [1715])」(コマ番号4/5・絵図四つ切左上、「カンダハシ」左に「松平甲斐守」(柳沢吉里)上屋敷が描かれています。柳沢吉保上屋敷を継続拝領。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・享保2 [1717])」(コマ番号5/5・絵図四つ切右上、「幸ハシ」御門内に「松平甲斐」上屋敷が描かれています。この上屋敷は幕末まで使用され、その後東京府庁となります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(出版年月日・享保9 [1724])」(コマ番号5/5・絵図四つ切右上、「幸ハシ」御門内に「松平甲斐」上屋敷が描かれています。また、絵図中央左下新堀川角地に「松平甲斐」中屋敷と描かれています。この中屋敷は幕末まで使用されます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号80/87・「享保16(1731)年以後之形」(柳沢吉里)、81/87・「文化5(1808)年当時之形」(柳沢保光)、83/87・「天保9(1838)年之形」の幸橋御門内に「松平甲斐守」(柳沢保興)と描かれている。コマ番号85/87・「文久元(1861)年調整 当時之形」の幸橋御門内に「松平時之助」(柳沢保申)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850)」[絵図四つ切右上・幸橋御門内に「松平時之助」と描かれている場所が、柳沢保申上屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永3年・1850)」(絵図右上角に「松平時之助」(柳沢保申)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(絵図右端下・幸橋御門内に「松平時之助」(柳沢保申)と描かれています。)

東京府庁舎
[東京府の府庁舎は、1868年の開庁時には江戸城幸橋門内(現在の千代田区内幸町1丁目)の大和郡山藩上屋敷を接収して使用した。1894年、麹町区有楽町[土佐藩山内家上屋敷跡(東京国際フォーラム)]に新庁舎が完成したため移転した。新庁舎は東京都庁の丸の内庁舎として引き継がれたが、旧建物は戦災で焼失している。
東京府庁(東京市役所との合同庁舎)・wikipedia-photo

  (wikipedia・東京府より)]

樋口一葉生誕の地
[第一ホテルアネックスの東にある千代田区立内幸町ホール(内幸町1-5-1)。その入口脇の植え込みに記念碑がたっています。「樋口一葉生誕地」の碑です。
 小説「にごりえ」や「たけくらべ」などで有名な明治を代表する女性作家樋口一葉。5,000円札の顔としても知られています。
 一葉は、明治5年(1872年)旧暦の3月25日に東京府構内の武家長屋(現在の内幸町1-5-2)で、東京府警視庁の役人だった父樋口則義、母たきの次女として生まれました。
 一葉は短い生涯の間に15個所も転居しており、小説を書きはじめた頃にいた本郷菊坂や、終焉の地である本郷丸山福山町(いずれも文京区)に住まいがあったことは比較的よく知られられているようです。しかし、一葉の生誕地が千代田区の内幸町にあったことはこれまであまり知られていませんでした。
 碑には作家の森まゆみさんの解説が記されています。
『(森まゆみ「一葉の四季」より)
 樋口一葉、名は奈津、なつ、夏子とも自署した。明治五年三月二十五日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。14歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。
 士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに國を憂えた。
 文学を志し、明治二十七年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の十四か月と評される。
 明治二十九年十一月二十三日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満二十四歳。』  (「樋口一葉生誕の地 – 千代田区観光協会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – [慶応改正御江戸大絵図](出版年月日・慶応3 [1867])」(コマ番号3/5・絵図四つ切右下、「幸ハシゴモン」内の柳沢保申上屋敷跡に「東京府」と記述されています。また、絵図中央付近古川角に「松平時之助」(柳沢保申)中屋敷が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国京橋区木挽町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図四つ切左上・幸橋左上に東京府庁が描かれています。)

樋口一葉生誕地 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は内幸町交差点で、カメラ初期設定方向道路(江戸時代には無かった)含め両サイドが大和郡山藩柳沢家上屋敷跡になります。(大和郡山藩柳沢家上屋敷跡範囲:千代田区内幸町1丁目2,3,千代田区内幸町2丁目2)

カメラ西南西方向植え込み上に「樋口一葉生誕地」の案内板があります。

「樋口一葉生誕地」案内板(Google Map 画像)