大垣新田藩戸田家上屋敷跡

マーカーは大垣新田藩戸田家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP695・コマ番号391/553から野村藩(大垣新田藩)屋敷の変遷について記載されています。P697・コマ番号392/553「上屋敷 外櫻田」がこの地になります。

大垣新田藩戸田家
[大垣新田藩(おおがきしんでんはん)は、美濃国三河国両国に所領を持つ藩。大垣藩の支藩で、別名は畠村藩。藩庁は三河国渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)にあった(畠村陣屋)が、明治2年(1869年)に美濃国大野郡野村(現在の岐阜県大野郡大野町上秋)に移された。
藩は戸田氏鉄の次男・戸田氏経が旗本として取り立てられたことに始まる。氏経は1619年(元和5年)三河国渥美郡の畠村をはじめとする5か村に1,500石を領することとなった。もともとこの5か村を統治していたのは水軍衆の系譜を持つ間宮氏だったが、これにより所領を失った。この間の事情はよくわかっていない。
次いで同国額田郡内で700石を加増され、明暦元年(1655年)、兄の戸田氏信から美濃国大野郡内の新田4000石を加増されて6200石の知行を得た(その後知行地は新田から従来からの耕作地に切り替えられた)。
その後、戸田氏利が跡を継ぎ、元禄元年(1688年)7月、氏利の跡を継いだ戸田氏成のとき、兄の戸田氏定から美濃国内の新田3000石を分与され、さらに養父の氏利の所領と渥美郡内の新田分を合わせて1万石となったため、ここに大垣新田藩は立藩し、藩庁を三河国渥美郡畑村に置いた。藩領は三河国内に3000石、美濃国内に7000石あった(のちに三河国内に6000石、美濃国内に4000石)。その後氏成は、元禄14年(1701年)に有名な浅野長矩の事件に連座して、出仕を止められている。
氏成の後を継いだ戸田氏房大番頭・奏者番・西丸若年寄を歴任し、戸田氏之(大番頭)、戸田氏養と代が続いた。明治2年(1869年)、最後の藩主・戸田氏良版籍奉還した後の同年5月、藩庁を美濃国大野郡野村に移したため、ここに大垣新田藩は野村藩と改名した。近くの民家に総門と役所門がそれぞれ移築されている。  (wikipedia・大垣新田藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央右上・松平安芸守上屋敷上に、戸田淡路守(戸田氏綏)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図中央上、松平安芸守上に戸田淡路守(戸田氏良)と記述されています。)

カメラ西北西方向は中央合同庁舎2号館駐車場で、この付近が大垣新田藩戸田家上屋敷跡になります。