山田浅右衛門屋敷跡

スポンサーリンク

マーカーはカメラ位置です。

山田浅右衛門屋敷跡
[劇画にもなった「首切り浅(朝)右衛門」は、浪人の山田家が引き継いだ幕府の「御ためし御用」の家系で、代々その名を受け継ぐ。将軍のための刀剣を管理する腰物奉行から依頼を受けて、刀の切れ味を試すのが仕事であった。刀剣の鑑定だけでなく、実際に人体を斬って切れ味を試すということから「人斬り」とも呼ばれた。江戸切絵図にもその名が記されており、現在の平河町一丁目2あたりと思われる。  (「麹町界隈 わがまち人物館-山田浅右衛門」より)]

山田浅右衛門
[山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。
御様御用の役目自体は腰物奉行の支配下にあったれっきとした幕府の役目であったが、山田浅右衛門家は旗本御家人ではない、浪人の立場であった。 これは死の穢れを伴う役目のためにこうした措置がとられたと解釈されがちである。しかし、五代目山田浅右衛門吉睦は、腰物奉行臼井藤右衛門に聞いた話として次のような記録を残している。
徳川吉宗の前で山田浅右衛門吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるという事があったという。この時、吉時が幕臣になることを申し出ていれば、取り立てられたであろう。しかしその機会を失ったために、浪人の立場のままとなった。これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった」
また、御様御用には技術が必要であるため、世襲の家系では水準を満たさない者が現れる可能性もあり、技術のある者が居るうちだけの臨時雇いとして、山田浅右衛門家を浪人に留めたという説もある。また、旗本や御家人では後述する役目外の収入を得ることが困難となるため、吉時があえて浪人の立場を望んだのではないかという説もある。
山田浅右衛門家は多くの弟子を取り、当主が役目を果たせない時には弟子が代行した。また当主に男子がいても、これを跡取りとせず、弟子の中から腕の立つ者を跡継ぎに選んだ。前述の通り技術が要求されたからであるが、同時に罪人の首を斬る仕事を実子に継がせる事の嫌悪があったともいう。歴代の山田浅右衛門家で実子を跡継ぎにしたのは山田浅右衛門吉時、山田浅右衛門吉豊のみである (山田浅右衛門吉時を初代と看做す場合は、1例のみとなる)。弟子は大名家の家臣やその子弟が多く、中には旗本や御家人も存在した。
浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし、様々な収入源があり、たいへん裕福であった。1843年(天保14年)の将軍の日光参詣の際には幕府に三百両を献金している。一説には3~4万石の大名に匹敵するほどであったという。幕府瓦解後、八代目山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担った。しかし1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなった。1880年(明治13年)には旧刑法の制定により、死刑は絞首刑となることが決定された。1882年(明治15年)には刑法が施行され、斬首刑は廃止される。吉豊は1874年(明治7年)に斬役職務を解かれ、吉亮も1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職している。 こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅した。  (wikipedia-山田浅右衛門より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」[絵図四つ切左上・「平川丁」に「山田浅右衛門」と描かれています。]

カメラ南南東方向が平河町1丁目の案内板です、この付近(旧平川丁・現平河町1丁目)が山田浅右衛門屋敷跡です。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*