岸和田藩岡部家上屋敷跡(元村井吉兵衛邸、現日比谷高校)

マーカーは日比谷高校です。

岸和田藩岡部家上屋敷
[和泉国岸和田藩2代藩主松平康映寛永17年(1640年)、藩主となったその年に播磨国山崎藩に転出した。その跡に、松平康映の妻の父である岡部宣勝摂津国高槻藩より6万石で入封し、以後は明治維新まで岡部氏の所領となった。宣勝の入封当初、松平氏の代に高直しとなったことに不満を持っていた南郡・日根郡の領民が強訴(寛永の強訴)を行った。これに対し、領民と対話して3千石を領民に分配し、一揆を未然に防いだ。また、岸和田城の改修、寺社の建立や復興を行い、名君と賞賛されている。  (wikipedia・岸和田藩より)]

[幕末の12代藩主岡部長寛(筑前守)は、幕末の動乱の中で、藩政においては軍政改革や藩校・講習館の増築を行なって修武館と改名するなどしている。当初佐幕派として行動していたが、戊辰戦争が起こると新政府側に与した。慶応4年(1868年)4月7日、新政府に献金を申し出る。同年6月、老臣岡部正路の処罰をめぐる藩内の対立により、新政府が調査に乗り出す。同年9月5日、家中の取締りを問題とされて、新政府から差控を命じられる。同年9月20日、隠居を願い出る。明治元年12月28日(1869年)、隠居を許可されて、養子の長職に家督を譲った。  (wikipedia・岡部長寛より)]

村井吉兵衛邸
[東京に進出した2代目・村井吉兵衛は、ひとまず後藤象二郎の旧邸に住んでいましたが、明治35年7月に樺山愛輔の所有地(永田町1-17)を購入して11月に転居。 明治38年に村井銀行の業務が開始すると、同年12月に永田町2丁目の土地を取得します。 近くに山王日枝神社がある事から通称『山王台』とも呼ばれたこの土地には、かつては岸和田藩の上屋敷があり、東京府中学(1871廃校)→東京鎮台屯所→高崎正風邸→有馬頼萬邸となっていました。 山王荘の計画が開始されて、明治45年には洋館の建設着工。この洋館(1913竣工、設計:吉武長一、木造2階+地階)は、明治44年に三島通庸の息子・彌吉と結婚した一人娘・久子の新居(麹町区三番町)が全焼したために建設したものです。
 孫も生まれて幸せな村井家でしたが、大正5年1月に妻・宇野子が死去。 翌年1月に女官『山茶花の局』と呼ばれた日野西薫子を後妻に迎えますが、大正9年3月に娘の久子を亡くしてしまいます。(彌吉は同年11月に離縁)
 大正15年1月に吉兵衛が急遽すると、義弟の貞之助が事業を継承しますが、昭和2年の金融恐慌で村井銀行が破綻。 土地は日比谷の代替地を探していた東京府が購入し、府立一中の校地となる事で決定。 山王荘の和館(木造2階建1919竣工、設計顧問:武田五一岡田信一郎、総棟梁:小林富蔵)は㈱冬青社が購入しますが、延暦寺の迎賓館としての話が持ち上がり、大倉喜八郎の斡旋で延暦寺へ譲渡。 解体部材は汐留駅から貨物列車に載せられ、坂本駅から人力で山の上に運び、昭和3年(1928.11.9)竣工。山王荘の一部が延暦寺大書院として現存しています。
 茶室一部は赤坂の大倉喜八郎邸を経て、根津嘉一郎邸へ移築され、現在は根津美術館の庭園(弘仁亭・閑中庵)にあります。
洋館は私設美術館となっていましたが、関東大震災後に帝都復興院の臨時事務所となり、大正14年に日仏会館へ無償で3年定期借家していました。 府立一中の校地とするため昭和3年3月に立ち退きとなり、日仏会館は臨時移転。 その後に取得した駿河台の敷地の大きさに合わせて、保管してあった解体部材を利用して昭和4年4月に洋館を再建。 その建物は昭和33年に建て替えのため解体されました。そして倉庫(美術品収納庫)は現地に残され、美術品の一部は村井家の菩提寺・鶴見総持寺へ寄進されています。
 村井家の家督を継いでいた孫の弘忠は、府立一中の生徒として校舎の移転にも立ち会いました。 母・祖父母を亡くし、生まれ育った家が無くなっていく… その心情については計り知れないものがあります。  (「旧 村井吉兵衛邸倉庫〔東京・永田町〕 – 美珍麗・探訪」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図下中央右に岡部内膳正(岡部長和)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年(1861年) 調)」(コマ番号2/3・絵図四つ切右下に岡部筑前守と記述されています。岡部筑前守前には渡辺丹後守、阿部摂津守屋敷が記述され、その間の道の左側が「岡部」の「部」、「渡辺」の「辺」、「阿部」の「部」から三べ坂と呼称されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[コマ番号55-57/87・山王上に岸和田藩岡部家上屋敷が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区紀尾井町及赤坂区田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図右下・日枝神社上、高崎邸が岸和田藩岡部家上屋敷跡です。また三べ坂が、三平坂と記述されています。)

国際日本文化研究センター – 東京市麹町區全圖 : 明治四十年一月調査(明治40・1907年)」(地図下中央・永田町二丁目28、29、30が岸和田藩岡部家上屋敷跡になります。)

東京都立日比谷高等学校 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が村井吉兵衛邸(現日比谷高校)正門です。