日比谷見附跡

マーカーは日比谷見附跡説明板です。

日比谷見附跡
[日比谷交差点、交番のある正面入り口から入ったそばにある日比谷見附跡説明板には、「この石垣は、江戸城城門の一つ、日比谷御門の一部です。城の外側から順に、高麗門枡形門渡櫓番所が石垣で囲まれてましたが石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、石垣の西側は濠になっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池(しんじいけ)としました。」とあります。帝国ホテル前の「この附近の江戸時代の地図」に、現在の地図と重ねて表示されていますが、心字池の位置からみて大番所近くの石垣のようです。  (「地下鉄で見附跡巡り5:日比谷見附|東京ガードレール探索隊 」より)]

下絵は「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸勝景〕 日比谷外之図」からのコピーで、松平大膳太夫上屋敷前から日比谷見附門を見た情景です。左の建物は番屋で、絵奥、日比谷見附門右に櫓門が描かれています。右の屋敷は松平大膳太夫(長州藩)上屋敷になります。

国立国会図書館デジタルコレクション – 青標紙(コマ番号20/57)」よりのコピーで、〔江戸勝景〕 日比谷外之図の松平大膳太夫上屋敷表門の形は、「青標紙」右上の形になります。

[青標紙(あおびょうし)とは、江戸時代後期の幕臣・国学者の大野広城(権之丞・忍軒)が著した武家故実書。全2巻で、前編は天保10年(1839年)に成稿され翌年出版。後編は天保11年(1840年)に成稿されて翌年出版。
概要
江戸幕府に仕える武士に必要な知識である武家故実についてを編集して懐中用の小型折本としたもの。武家諸法度・御定書・軍令・軍役・勤番・武具・行列・関所通行・服制・鷹狩などに関する諸規定から成り、しばしば発生する疑問やそれに関する回答について老中や目付に対する伺書の書式を用いて解説している(書札礼の役目も兼ねる)。当時、江戸幕府は法令が一般に知られることを固く禁じていたため、大野も慎重を期して「300部限定」として刊行している。だが、大野の武家故実の研究がその規定に反する疑いが先著である『殿居嚢』・『泰平年表』刊行の段階で持たれており、『青標紙』の刊行で武家諸法度などの法令を掲載したことが決定的な証拠とされて、天保11年(1840年)6月9日大野は綾部藩永預となり、著書は発行禁止とされ、刊行に関わった版元なども処分された。同年9月11日に大野は配流先にて憤死している。だが、刊行された書を完全に回収することは出来ず、大正時代に刊行された『江戸叢書』によって全容を知ることが可能である。  (wikipedia・青標紙より)]

日比谷見附資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [1]」(コマ番号17-20/47・日比谷御門)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図左の中程上に日比谷御門が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右上に日比谷御門が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図右上に「日比谷御門之方」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号78~85/87・絵図左に「日比谷御門之方」と描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌 – 早稲田大学(近吾堂, 嘉永2[1849])」・「bunko01_01854_p0001.jpg

[名所江戸百景・ 山下町日比谷外さくら田(現在の中央区立泰明小学校付近から北西を望む)wikipedia-photo]

(江戸時代の日比谷門・wikipedia-photo、日比谷櫓(『江戸図屏風』)・wikipedia-photo)

江戸城 日比谷見附跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向に日比谷見附跡碑と説明板があります。

カメラ位置は日比谷公園内で、カメラ東南東方向が石垣遺構です。

石垣遺構上から見た日比谷公園

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