マーカーは中央合同庁舎 第1号館・林野庁です。
関連リンク – 横須賀藩西尾家中(下)屋敷跡、横須賀藩西尾家下屋敷跡
横須賀藩西尾家
[横須賀藩(よこすかはん)は、遠江国に存在した藩。藩庁は横須賀城(静岡県掛川市西大渕)。
本多家(本多利長)改易後の天和2年(1682年)3月9日、信濃小諸藩より西尾忠成が2万5000石で入り、藩主家は安定した。
第2代藩主西尾忠尚は老中を歴任して幕政に参与したことから江戸暮らしが長かったが、そのために江戸文化が横須賀にも導入され発展することとなった。在任中に宝永地震で港が使い物にならなくなり、貿易中継拠点の街から地場産業の街へと移行する。第4代藩主西尾忠移の正室は田沼意次の娘であり、忠移は相良城破却を務めた。また、忠尚同様に蘭学を好み、高森観好を登用して文化の発展に尽くし、この時代は西尾文化ともいわれた。殖産興業でも忠移はサツマイモ・茶・サトウキビの栽培、遠州灘の漁業促進などに尽力した。
幕末期に入ると、西尾家は譜代の名門であることから家臣団が佐幕派・尊王派に分裂して抗争した。戊辰戦争が始まると対応に苦慮したが、尾張藩の説得を受け、また青山善一郎の仲介もあって尊王派が大勢を占めた。その後、横須賀藩は新政府の東征軍に協力した。
明治2年(1869年)2月29日、第8代藩主西尾忠篤は安房花房藩に移封され、横須賀藩は廃藩となった。 (wikipedia・横須賀藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850)」[絵図四つ切右上に西尾隠岐守(西尾忠受)上屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861)」(コマ番号3/3・絵図中程に西尾隠岐守(西尾忠受)と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号72-73/87に西尾隠岐守と描かれています。)
カメラ位置は霞が関二丁目交差点で、カメラ西南西方向が横須賀藩西尾家上屋敷跡に建つ中央合同庁舎 第1号館・林野庁です。