沼津藩水野家上屋敷跡(中央合同庁舎第5号館・厚生労働省)

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP845・コマ番号466/553から菊間藩(沼津藩)屋敷の変遷について記載されています。P849・コマ番号468/553「上屋敷 外櫻田」がこの地になります。

沼津藩水野家
[沼津藩(ぬまづはん)は、江戸時代の藩の一つ。駿河国駿東郡(現:静岡県沼津市大手町)の沼津城を居城とした。
沼津に初めて本拠を置いた近世大名は、相模小田原藩主・大久保相模守忠隣の叔父に当たる治右衛門忠佐である。忠佐は慶長6年(1601年)2月、上総茂原から2万石で当時の三枚橋城に入るが、入封から12年後の慶長18年(1613年)に死去し、嫡子の大久保忠兼も同年に父に先立って死去していたため、無嗣断絶で改易となった。そのため、大きな事跡は残されていない。
その後、沼津の地は駿河府中藩が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。
沼津に再び大名の本拠が置かれるのは安永6年(1777年)11月6日、水野出羽守忠友三河大浜藩より2万石で転封してきたことによる。忠友は享保10年(1725年)に殿中刃傷により改易となった信濃松本藩主・水野隼人正忠恒の従兄弟であり、寛保2年(1742年)に忠恒の名跡を継いだ父・出羽守忠穀の跡を継ぎ、明和5年(1768年)に加増により大浜で1万3000石を領して大名に復帰していた。沼津転封後幕府の命により当地に築城したのである。なお、忠友は天明元年(1781年)9月18日に5000石を加増され、天明5年(1785年)5月29日にも5000石を加増された。
第2代藩主・水野忠成徳川家斉時代に老中として権勢を奮い、田沼意次以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。なお、忠成も文政4年(1821年)11月11日に1万石の加増を受け、文政12年(1829年)12月6日にも1万石の加増を受けた。
忠成の死後、第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武らは、天保の改革を行なった水野忠邦から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。
第6代藩主・水野忠寛井伊直弼に同調して側用人として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・水野忠誠佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・水野忠敬慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府に協力したが、徳川家達が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、明治元年(1868年)7月に上総菊間藩に移封され、沼津藩は廃藩となった。  (wikipedia・沼津藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850)」[絵図四つ切右上に水野出羽守(水野忠良)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は霞門交差点で、カメラ西南西方向が沼津藩水野家上屋敷跡に建つ中央合同庁舎第5号館・厚生労働省です。