渡辺崋山誕生地

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マーカーは渡辺崋山誕生地の説明板です。

渡辺崋山誕生地
[国道246号線の起点である三宅坂に「三宅坂小公園」があります。江戸時代ここは三河国田原藩の屋敷でした。田原藩の家老蘭学者だった渡辺崋山はここで生まれました。通称を登といい寛政5年(1793)大部分をここですごしました。貧窮に喘いだ暮らしぶりだったといわれています。生活のために絵画を学び、伝統的な画法に西洋式の遠近法や陰影法を取り入れたスケッチをたくさん残しています。しかし、それよりも崋山が歴史に名を残したのは、いち早く西洋世界の実情を知って『慎機論』などを著し、「蛮社の獄」によって弾圧されたからでしょう。  (千代田区観光協会ホームページより)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」[絵図三宅土佐守が三河国田原藩です。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「四之二[3] – 2/3」(絵図左上に三宅備前守と描かれています。)、「四[87] – 32/87、34/87、36/87、38/87」(絵図左ページ上右に三宅備前守が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二」(コマ番号2/3・絵図左上に三宅備前守と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号32/87、34/87、36/87、38/87・絵図左ページ上右に三宅備前守が描かれています。)

カメラ西方向・三宅坂小公園石垣前に渡辺崋山誕生地の説明板があります。

渡辺崋山
[江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。のちに谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んでいる。また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問会はモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英幡崎鼎幕臣川路聖謨羽倉簡堂江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての呼び名である。
かつて、蛮社の獄は、江戸幕府の保守派、目付鳥居耀蔵が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治藤田茂吉がこれを自由民権運動との連想で書いたためである。だが実際には、鳥居と江川英龍との確執が原因であり、天保10年(1839年)5月、鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。翌々年、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年3月15日(1868年4月7日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。  (wikipedia・渡辺崋山より)]

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