盛岡藩南部家上屋敷跡

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盛岡藩南部家
[盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。
居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。
天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡閉伊郡鹿角郡久慈郡岩手郡、志和郡、そして遠野)についての覚書の朱印状を得ることによって、豊臣大名として公認された。このときに秀吉との間をとりもったのが前田利家であり、南部家はこの恩を忘れぬようにと以降の歴代当主の名前には「利」をつけるようになる。
さらに、翌天正19年(1591年)九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡鼻和郡田舎郡)の代替地として和賀郡稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県青森県秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。
江戸時代の250年間に76回もの飢饉があった。
物流は北上川舟運による輸送が主流であり、仙台藩石巻を経由して江戸上方と結ばれていたが、西には鹿角街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した近江商人をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人のほか、山城京都府)・大坂大阪府)・伊勢三重県)・美濃岐阜県)・常陸茨城県)・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。も
殊に京都(京)からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また上方(関西地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町(秋田県仙北市からの移住者が集住)、津軽町(青森県津軽地方からの移住者が集住、現在の津志田)のほか、「岩手町・久慈町」(現在の材木町)など、領内各地からの移住者による町も生まれた。
寛文 4年(1664年)9月、第3代藩主の南部重直が、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に後継者選定と家の存続を事前に願って江戸で死去した。
重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の七戸重信に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の中里直好に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。
文化 5年(1808年)には、第11代藩主・南部利敬蝦夷地(現在の北海道)警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し(文化の高直り)が行われる。これ以降藩主は従四位下「盛岡侍従」の官位を名乗ることとなる。
石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、藩主主導の放漫経営や散財、無理に高くした格式に見合った参勤交代や蝦夷地警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。
明治元年(1868年)、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
明治3年(1870年)5月、廃藩置県の布告を待たず、借金返済の不可能を理由に、他藩に先駆けて廃藩置県を願い出で受理され、藩は終了した。  (wikipedia・盛岡藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切右上・南部信濃守(南部利済)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図四つ切右上に南部信濃守(南部利剛)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号 78~81/87、83/87、85/87に南部大膳太夫、信濃守、美濃守と描かれています。)

カメラ位置は日比谷公園中幸門で、カメラ北北東方向日比谷公会堂、日比谷図書文化館周辺が盛岡藩南部家上屋敷跡になります。