福岡藩黒田家上屋敷跡

マーカーは外務省です。

関連リンク – 福岡藩黒田家中屋敷跡福岡藩黒田家下屋敷跡福岡藩黒田家深川下屋敷跡(蔵屋敷)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP765・コマ番号426/553から福岡藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 外櫻田霞ヶ関」がこの地になります。

福岡藩黒田家上屋敷
[明治政府は霞ヶ関、大手町、丸の内等の大名藩邸跡を接収し、官庁街や軍事施設として利用しました。霞ヶ関坂の福岡藩黒田家上屋敷は、明治維新当時より外務省として利用され正面玄関北から北東角の御長屋は戦災で焼失するまで存続し、今も石垣に江戸時代の景観を残しています。外務省の敷地に有った屋敷に飾られていた鬼瓦東京国立博物館敷地に移設されています。大振りで高さが2m余りあり、鬼面の代わりに家紋の黒餅紋を用いています。  (「福岡藩 上 屋敷」より)]

※鬼瓦は東京国立博物館敷地内(旧因州池田屋敷表門黒門内)に設置してある。

[福岡藩の江戸屋敷がいつからあったのかは今のところはっきりしません。「落穂集(おちぼしゅう)」によれば、慶長(けいちょう)5(1600)年の関ヶ原(せきがはら)の合戦後、江戸では諸大名がこぞって屋敷の拝領を願っているとあり、黒田(くろだ)家も鍋島(なべしま)、毛利(もうり)、島津(しまづ)、伊達(だて)、上杉(うえすぎ)らの諸家と共に外桜田(そとさくらだ)で屋敷拝領願いを出しています。また、慶長13(1608)年頃の景観を描いた「慶長江戸絵図」(東京都立中央図書館蔵)には「黒田筑前守(ちくぜんのかみ)」とある屋敷が大名小路(だいみょうこうじ)に見えます。慶長20(1615)3月には、黒田長政(ながまさ)により「江戸ニ詰候供之者苦労之定(えどにつめそうろうとものものくしんのさだめ)」が作成されているので、その頃には福岡藩の屋敷が置かれていたと考えられます。
 その後、参勤交代制度が整備されるに伴い、徐々に武家屋敷は江戸周縁部へ向かって増加していきます。福岡藩の場合は上屋敷(かみやしき)が外桜田の霞ヶ関(かすみがせき)に、中屋敷(なかやしき)が赤坂溜池(あかさかためいけ)に、下屋敷(しもやしき)が白金(しろがね)や渋谷(しぶや)等にありました。その規模は、江戸時代後期の記録では上屋敷と中屋敷がそれぞれ約2万坪(なお、福岡市博物館の敷地は約1万5,000坪)、白金の下屋敷が3,400坪余、渋谷の下屋敷が9,000坪余でした。ちなみに、福岡藩の支藩であった秋月(あきづき)藩の上屋敷は芝新堀(しばしんぼり)にあり、広さは6,400坪余りありました。藩邸に詰めていた人数は、藩の規模によってまちまちですが、多い場合で5~6,000もの人々が働いていました。なお、屋敷の位置は、桜田の上屋敷と赤坂溜池の中屋敷については、面積の変化や災害後の建て替えはあったものの、江戸時代を通じて移動することはありませんでした。  (「No.274 福岡藩の江戸屋敷-霞ヶ関・赤坂・渋谷・白金- | アーカイブズ」より)]

資料リンク
東京都立図書館 – 慶長江戸絵図[慶長12(1607)年か]」[絵図下中央付近・大名小路下に黒田筑前守(黒田長政)が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(出版年月日・[寛永9(1632)頃]刊」[絵図四つ切左上・外桜田御門左方向に「黒田右衛門佐」(黒田忠之)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(出版年月日・寛文10(1670)刊」[絵図中央上方向・外桜田御門左上方向に「松平チクゼン」(黒田光之)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850年)」[松平美濃守(黒田長溥)が福岡藩黒田家上屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」[コマ番号3/3・絵図中程に「松平美濃守」(黒田長溥)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二[文久元(1861)年]」[コマ番号3/3・絵図中央左、松平美濃守(黒田長溥)が福岡藩黒田家屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[コマ番号61/87「延宝(1673-1681)年中之形」に「松平右衛門左」(黒田光之)、62/87「正徳元(1711)年之方」に「松平筑前守」(黒田綱政)、63/87「寛政四(1792)年之形」に「松平雅之助」(黒田斉隆)、64/87「文化五(1808)年当時之形」に「松平備前守」(黒田斉清)、66/87「天保九(1837)年之形」に「松平美濃守」(黒田長溥)、68/87「文久元(1861)年当時之形」に「松平美濃守」(黒田長溥)と描かれています。]

東京図測量原図 : 五千分一 – (内題)東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央・外務省、有栖川邸の庭園以外の部分が福岡藩黒田家上屋敷跡になります。)

福岡藩黒田家中屋敷
国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸外絵図. 赤坂、麻布、芝筋(出版年月日・寛文11-13(1671-1673)刊」[絵図中央右方向・ため池左に松平右衛門(黒田光之)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永3年・1850 年)」[絵図中央右上・松平美濃守(黒田長溥)が福岡藩黒田家屋敷です。]

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ折り右上に黒田邸が描かれています。)

「東都名所」(霞ケ関山王祭諌込ノ図かすみかせき

歌川広重作・霞ヶ関(絵左が福岡藩上屋敷、右が広島藩上屋敷)

旧黒田邸時代の外務省・wikipedia-photo

外務省庁舎・wikipedia-photo

カメラ北北西方向が福岡藩黒田家上屋敷跡(現外務省)で当時の石垣が現存利用されている。(福岡藩黒田家上屋敷跡範囲:千代田区霞が関2丁目2)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*