福知山藩朽木家上屋敷跡

マーカーは福知山藩朽木家上屋敷跡です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP742・コマ番号415/553から福知山藩屋敷の変遷について記載されています。P743・コマ番号415/553「上屋敷 外櫻田」がこの地になります。

福知山藩朽木家上屋敷
[福知山藩(ふくちやまはん)は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)に存在した藩。居城は福知山城
関ヶ原の戦いで東軍に与した有馬豊氏は、本戦で後ろ揃えを務めたことで、遠江横須賀3万石から福知山6万石に加増移封されて福知山藩が立藩した。慶長7年(1602年)に豊氏の父・有馬則頼が死去すると、豊氏は父が摂津三田に知行していた2万石も併せて相続することとなり、福知山で都合8万石の大名となった。
その後、大坂の陣においても徳川方として武功を挙げたため、元和6年(1620年)閏12月に20万石に加増の上で筑後久留米藩に移封された。
その後は伏見奉行小堀政一がしばらくは統治を行なう。元和7年(1621年)8月、丹波亀山藩から岡部長盛が5万石で入るが、寛永元年(1624年)9月に美濃大垣藩に移される。替わって摂津中島藩から稲葉紀通が4万5700石で入るが、慶安元年(1648年)8月に改易となった。その後、半年ほどは公儀御料として幕府が直轄したが、慶安2年(1649年)2月28日に三河刈谷藩から松平忠房が4万5900石で入る。これも寛文9年(1669年)6月8日には肥前島原藩に7万石で加増移封となり、替わって常陸土浦藩から朽木稙昌が3万2000石で入り、以後は朽木氏13代の支配で藩政が安定した。
初代藩主朽木稙昌の父稙綱は、徳川家光のもとで御小姓番頭、奏者番を務めたことから、朽木元綱の末子ながら兄たちより厚遇され、譜代大名として取り立てられた。そうした経緯から、朽木氏の歴代の福知山藩主の多くは奏者番・御小姓番頭・寺社奉行を務めている。藩財政は稙昌の頃から既に苦しく、元禄4年(1691年)には5ヵ年にわたる半知を行なっている。第5代藩主玄綱の時代には享保の大飢饉が原因で享保の強訴と呼ばれる騒動が起こり、藩内は混乱した。なお、玄綱は明智光秀御霊法会を許可している(御霊祭りの開始)。
歴代藩主の中でも第7代藩主舖綱と第8代藩主昌綱は文人として知られ、前者は『擬独語』を著わし、藩校創設の基礎を築き上げた。後者は大槻玄沢蘭学者やオランダ商館長(カピタン)と交遊を持って蘭学を研究し、『蘭学階梯』の序文や『泰西輿地図説』、『古今泉貨鑑』など、多くの貴重な著作を残した。第9代藩主倫綱も領民の教化を図って『岩間の水』を著わしている。
福知山藩では財政再建の必要性から、藩政改革がいくたびも行なわれたが、その都度失敗する。それは、百姓による強訴が常に起こったからである。特に前述の享保年間と、幕末万治元年(1860年)の強訴は大規模であった。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で福知山藩は廃藩となり、福知山県となる。  (wikipedia・福知山藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右上・朽木近江守(朽木綱張)上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号 81/87「文化五(1808)年之形」に朽木土佐守(朽木綱方)、コマ番号83/87「天保九(1838)年之形」に朽木河内守(朽木綱張)と描かれ、85/87「文久元(1861)年之形」に、牧野備前守(牧野忠恭)が描かれています。この屋敷替えは牧野忠恭が万延元年(1860年)6月25日奏者番に就任し、朽木綱張が文久元年(1861年)5月26日、奏者番を辞任した関連かもしれません。朽木綱張は、赤坂に屋敷地(現在の乃木神社の東隣)を拝領します。牧野忠恭はこの後老中(任期:1863年 – 1865年)に就任し、大名小路、和田倉御門前に屋敷替えとなり、この地には老中を辞職した松平信義(任期:1860年 – 1863年)が入ります。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正麹町永田町外桜田絵図(嘉永3[1850]/元治元[1864]改正)」(絵図四つ切右上・松平豊前守(松平信義)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正今井谷六本木赤坂絵図(万延2[1861]改正)」(絵図四つ切左下・毛利淡路守上屋敷下に朽木近江守(朽木綱張)上屋敷が描かれています。朽木綱張はこの後、慶応元年(1865年)3月4日、再び奏者番に就任し屋敷替えとなり、「元治2[1865]再板」では、この地は旗本屋敷になっています。最後の福知山藩朽木家上屋敷は?)

カメラ位置は福知山藩朽木家上屋敷跡と思われる園内です。