尾張徳川家中屋敷跡

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尾張徳川家
[明暦2(1656)年3月7日、市ヶ谷に屋敷地が下賜され、代替に麹町・赤坂(中)・千駄ヶ谷茶屋の三屋敷が上地となり、翌3(1657)年5月14日、鼠穴上屋敷が上地されて代替に麹町屋敷の再下賜と市谷屋敷の添地が与えられ、同月27日には八丁堀蔵屋敷が上地となり木挽町築地に土地が下賜された。  (「大名江戸屋敷の機能的秩序 ー尾張藩を素材としてー」より)]

[当初尾張藩邸は紀伊徳川家水戸徳川家とともに江戸城内吹上にあり、初代徳川義直が居住し鼠穴邸と称した。豪華絢爛で秀忠家光の御成をたびたび受けたという。
1637年に二代藩主光友が家光の息女千代姫と婚姻したため、初代義直の隠居所として幕府より麹町邸が下賜された。。その後の麹町邸の主な動きを辿ると「麹町邸の主な動き」の通りである。藩主隠居や世子居住、上屋敷火災等による一時的居住などの記録が見られる。
 1697年の五代将軍綱吉御成には御殿の造営で二十二万両(約220億円)を費やし、藩の財政を大きく傾けたという。この中で興味深いのは、1730年六代藩主継友が前年江戸に到着した象を麹町邸に招き見物したこと、また邸でたびたび能が上演されたことである。古地図でも麹町邸の表玄関は現在の紀尾井ホール正面玄関の側とほぼ同じ。
 実はここにもう一つ重要な出来事が記されている。六代藩主継友と七代藩主宗春である。継友は紀州吉宗と八代将軍の争いを演じ敗れた人物である。尾張は紀州・水戸を加えた御三家筆頭の家格、継友は八代将軍の最有力候補であった。だが1716年紀州側の強力な幕府工作で継友は紀州吉宗に将軍の座をさらわれてしまった。恥辱である。継友は以後14年間不遇の日々を過ごした。市谷邸消失で麹町邸へ移ったものの、無念を残してここで逝去。その思いを受けて登場してきたのが宗春である。抜群の才気と構想で、当時誰もできなかったことを実行し、尾張に繁栄をもたらした。しかしそれは質素倹約で享保の改革を進める吉宗とことごとに対立、ついに尾張藩主の座を追われ罪人として余生を送ることになる。
麹町邸の主な動き
●明暦3年(1657) – 明暦の大火で二代藩主光友、千代姫家族は鼠穴邸から麹町邸に避難。光友鼠穴邸を返上。市谷邸(上屋敷)を下賜され翌年麹町邸から市谷へ移住。
寛文7年(1667) – 世子綱誠(つななり)市谷邸より麹町邸へ移住。
●寛文12年(1672) – 市谷邸の能舞台を麹町邸へ移築、翌年舞台開き。
元禄6年(1693) – 綱誠三代藩主となり麹町邸より市谷邸へ移住。
●元禄10年(1697) – 五代将軍綱吉麹町邸へ御成、御殿新築。
享保11年(1726) – 前年市谷邸類焼により六代藩主継友市谷邸より麹町邸へ移住。能舞台で観能。
●享保13年(1728) – 四代藩主吉通息女三姫と松平友相(のちの八代藩主宗勝)婚礼、麹町邸祝能。
●享保15年(1730) – 4月麹町邸に象を招き藩主継友これを見物。11月継友逝去。宗春麹町邸に入り七代藩主となる。
●享保17年(1732) – 前年尾張に帰国した宗春、参勤交代で江戸入り麹町邸へ。その後市谷邸へ移住。
元文4年(1739) – 1月宗春、幕命により市谷邸より麹町邸へ移り謹慎蟄居。宗勝八代藩主となる。9月宗春麹町邸を出て尾張帰国。
延享3年(1746) – 市谷邸消失により藩主宗勝麹町邸へ。
●延享5年、寛延元年(1748) – 市谷邸再建し宗勝麹町邸より市谷邸へ移住。
宝暦10年(1760) – 世子宗睦市谷邸手狭により麹町邸へ移住。
●宝暦11年(1761) – 宗勝逝去により宗睦九代藩主となり市谷邸へ移住。  (「紀尾井町余話―(2) – 紀尾井ホール」より)]

紀尾井町余話―(1) – 紀尾井ホール」、「紀尾井町余話―(3) – 紀尾井ホール」、「紀尾井町余話―(5) – 紀尾井ホール

「尾張藩のページ01 – 徳川黎明会」

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(出版年月日・[寛永9(1632)年頃])[絵図四つ切右上・現在の吹上御所付近に「尾張大納言様(徳川光友)」(※鼠穴上屋敷)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(出版年月日・寛文1O(1670)刊」[絵図上端中央付近・「西」下に「尾張中将殿」(徳川光友)、「イ井カモン」(井伊直澄)、「紀伊中納言殿」(徳川光貞)と記述されています。また、絵図四つ切左下に「尾張中納言殿」(木挽町築地)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号44/87「延宝元(1673)年-元禄三(1690)年之形」(徳川光貞、井伊直興、徳川光友)、45/87「元禄四(1691)年以後之方」(徳川光貞、井伊直興、徳川光友)、46/87「元禄十年(1697)以後之方」(徳川綱教、井伊直興、徳川綱誠)、47/87「正徳五(1715)年以後之方」(徳川宗直、井伊直惟、徳川継友)、48/87「文化五(1808)年当時之形」(徳川治宝、井伊直中、徳川斉朝)、50/87「天保九(1838)年之方」(徳川治宝、井伊直亮、徳川斉温)、52/87「文久元(1861)年当時之形」(徳川茂承、井伊直憲、徳川慶勝)の絵図に「紀伊殿」「井伊掃部頭」「尾張殿」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850)」[絵図左下・尾張殿(徳川慶勝)が尾張徳川家中屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号2/3・絵図左に「紀伊殿」(徳川茂承)、「井伊掃部頭」(井伊直憲)、「尾張殿」(徳川慶勝)が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区紀尾井町及赤坂区田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上・紀尾井町に皇宮地付属地を含む一帯が尾張徳川家中屋敷跡になります。)

尾張名古屋藩屋敷跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向、植え込みの中に尾張徳川家中屋敷跡の碑と案内板があります。

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