マーカーは弁護士会館です。
関連リンク – 「西大平藩大岡家中屋敷跡(元赤坂小学校)」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP410・コマ番号249/553から西大平藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 外櫻田」がこの地になります。
大岡忠相
[大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。
寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任と同時に足高分が正式に加増として与えられ、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領することとなり正式に大名となる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである。 (wikipedia-大岡忠相より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間延享江戸大絵図(出版年月日・延享5 [1748])」(コマ番号3/3・絵図右端中央付近、外桜田御門左方向に「大岡越前」(大岡忠相)と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号72/87「文化5年(1808)当時之形(大岡忠移)」、「文政10年(1827)之形」(大岡忠移)、73/87「文久元年(1861)当時之形」(大岡忠敬)・絵図中央左に「大岡越前守」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850)」[絵図桜田御門右下側・大岡越前守(大岡忠愛)が西大平藩大岡家上屋敷です。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861)」(コマ番号3/3・絵図中程に「大岡越前守」(大岡忠敬)と描かれています。)
「大岡越前守忠相 屋敷跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ北北西方向が西大平藩大岡家上屋敷跡(現弁護士会館)で、敷地内に大岡越前守忠相屋敷跡の説明版があります。