長州藩毛利家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP721・コマ番号404/553から山口藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 外桜田」がこの地になります。そこに下記の通り記述されています。
『山口藩 公爵毛利家 旧封三拾六萬九千石余
一、上屋敷 外桜田 麹町区西日比谷町第一中学校付近
  拝領慶長八(1603)年九月 没収元治元(1864)年七月廿六日 坪数壹萬七千百坪余
   毛利家記録、上屋敷江戸櫻田一萬七千百七拾坪余慶長八年九月拝領、後貞享四年七月廿二日買添、文政九年添地拝領、天保五年邸内一部佐賀藩鍋島家ト替地。
   同記録、慶長十二年邸成リ、爾後数回類焼、元治元年七月廿六日没収。
   屋敷書抜、文政七年十一月九日櫻田御用屋敷之内四千坪、松平大膳大夫え。
   同書、文政十年七月九日櫻田御用屋敷之内貳千七百四拾三坪添地、松平大膳大夫え。
   同書、元治元年七月廿九日毛利大膳大夫上ㇼ屋敷櫻田壹萬七千百坪余云々』
と、慶長8(1603)年に拝領し、元治元(1864)年に没収されるまで、261年間同地に上屋敷があったことになります。]

長州藩毛利家
[長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代周防国長門国を領国とした外様大名毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰
安芸広島を本拠に山陽道山陰道の8か国を領有していた毛利家が関ヶ原の戦いに敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国阿武郡萩城に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国吉敷郡山口山口城(山口政事堂)へ移した山口移鎮後も長州藩と呼ばれている。萩時代を萩藩(はぎはん)、山口時代を山口藩(やまぐちはん)とも呼んで区別する場合もある。明治初年から4年まで、府藩県三治制下では山口藩と称した。また毛利藩と呼ばれることもある。
幕末には薩摩藩とともに討幕運動の中心となり、明治維新の原動力となった。明治政府木戸孝允大村益次郎伊藤博文井上馨山縣有朋などの人材を多数輩出した。
藩主の毛利氏は大江広元の四男を祖とする一族。鎌倉時代に、越後国佐橋荘を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国吉田庄を分与し分家を立てる。時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治するようになる。戦国時代毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国路10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。
元就の孫の毛利輝元豊臣秀吉に仕え、天正19年(1591年)3月、安芸・周防・長門・備中半国・備後伯耆半国・出雲石見隠岐の112万石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。
秀吉の晩年には五大老の一人に推され、関ヶ原の戦いでは西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2か国29万8480石2斗3合を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊益田元祥らが藩政を取り仕切った。
幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局に影響を与える存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した(山口移鎮)。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。同年、会津藩薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
同年長州藩は攘夷親征の朝旨を実現するため、攘夷実行開始期日の1863年5月10日に下関海峡を通過する列強諸国の軍艦に砲撃を加えた。幕府の統治能力では攘夷運動を抑止できないと判断したアメリカ合衆国イギリスフランスオランダの列強四か国は、攘夷運動の本拠地である長州藩に対して直接武力行使に出ることにし、4か国連合艦隊を下関に向かわせた。この事態に藩上層部は、ロンドンから急遽帰国した伊藤俊輔(伊藤博文)や井上馨らの制止も聞かず、列強諸国の賠償金支払い要求を拒否したため、1864年(元治元年)8月に下関戦争が発生した。列強諸国の圧倒的火力の前に長州藩の砲台は破壊されて降伏と賠償金支払いを余儀なくされた。この事件を契機として攘夷論は不可能であることが藩内で認識されるようになり、列国に接近して藩軍の装備を洋式化しつつ倒幕を目指す藩論が強まった。またこの事件によって武士階級の無力さが暴露される形となった。上海でアジア最大の大国である中国の半植民地化を目の当たりにした藩士高杉晋作は、安政期以降の長州藩軍制改革の成果に立って藩主の信認のもとに、1863年6月に身分に関わらず志があれば力量本位で参加できる軍隊奇兵隊を創設した。
1864年(元治元年)の池田屋事件禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨藤太ら幕府恭順派(俗論派)が実権を握り、周布政之助家老益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派(正義派)の藩士高杉晋作は、1865年(慶応元年)に奇兵隊など諸隊の力を得て下関功山寺で挙兵し、美祢郡大田・絵堂の戦いで俗論派を破った(功山寺挙兵)。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、俗論派にかわって再び正義派が政権を握り、藩論は武備恭順に転換した。この方針に従って村田蔵六(大村益次郎)が登用され、彼の主導下で藩の軍制改革が実施された。特別資金であった撫育方の貯蓄金を放出して銃器や艦船など装備の洋式化を図って幕府の再征に備えた。
1865年に土佐藩坂本龍馬亀山社中の仲介でイギリスの軍艦ユニオン号を薩摩藩の名義で50,000両で購入し、これがきっかけとなって薩摩藩との関係が改善し、1866年(慶応2年)には、坂本龍馬や中岡慎太郎を仲介として長州藩の木戸孝允と薩摩藩の西郷隆盛小松帯刀らが京都薩摩藩邸京都市上京区)において会談し、6カ条からなる薩長同盟を締結。倒幕の機運は高まった。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。
1866年(慶応2年)6月に14代将軍徳川家茂は諸藩の反対が強い中で第二次長州征伐を強行したが、高杉と大村益次郎の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。7月に大阪城で家茂が死去すると幕府軍は撤退を決定。長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まり、大政奉還へとつながった。  (wikipedia・長州藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切右上・松平大膳太夫(毛利敬親)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図四つ切右上に松平大膳太夫(毛利敬親)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号 78~81/87、83/87、85/87・78/87絵図左下に松平大膳太夫が描かれています。)

下絵は「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸勝景〕 日比谷外之図」からのコピーで、松平大膳太夫(長州藩)上屋敷前から日比谷見附門を見た情景です。左の建物は番屋で、絵奥、日比谷見附門右に櫓門が描かれています。

国立国会図書館デジタルコレクション – 青標紙(コマ番号20/57)」よりのコピーで、歌川広重「〔江戸勝景〕 〔山〕下御門之内」、〔江戸勝景〕 日比谷外之図の表門の形は、「青標紙」右上の形になります。

[青標紙(あおびょうし)とは、江戸時代後期の幕臣・国学者の大野広城(権之丞・忍軒)が著した武家故実書。全2巻で、前編は天保10年(1839年)に成稿され翌年出版。後編は天保11年(1840年)に成稿されて翌年出版。
概要
江戸幕府に仕える武士に必要な知識である武家故実についてを編集して懐中用の小型折本としたもの。武家諸法度・御定書・軍令・軍役・勤番・武具・行列・関所通行・服制・鷹狩などに関する諸規定から成り、しばしば発生する疑問やそれに関する回答について老中や目付に対する伺書の書式を用いて解説している(書札礼の役目も兼ねる)。当時、江戸幕府は法令が一般に知られることを固く禁じていたため、大野も慎重を期して「300部限定」として刊行している。だが、大野の武家故実の研究がその規定に反する疑いが先著である『殿居嚢』・『泰平年表』刊行の段階で持たれており、『青標紙』の刊行で武家諸法度などの法令を掲載したことが決定的な証拠とされて、天保11年(1840年)6月9日大野は綾部藩永預となり、著書は発行禁止とされ、刊行に関わった版元なども処分された。同年9月11日に大野は配流先にて憤死している。だが、刊行された書を完全に回収することは出来ず、大正時代に刊行された『江戸叢書』によって全容を知ることが可能である。  (wikipedia・青標紙より)]

カメラ位置は祝田橋交差点でカメラ南南東方向が長州藩毛利家上屋敷跡になります。