霞ヶ関

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霞ヶ関
[奥州街道の関所として中世から東国の名所として広く知られており、1364年(貞治3年)の『新拾遺和歌集』にも「徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる」として詠まれているが、これが現在の千代田区霞が関にあたるかどうかについては異論もあり、具体的には新宿区霞岳町、狭山市下広瀬、多摩市関戸などが候補として挙がっている。
江戸時代までは大名屋敷が並ぶ地域であった。明治時代に大火があり、跡地に外務省や海軍省、有栖川宮邸などが置かれたことをきっかけに、官公庁施設の集積地(正式には中央官衙地区(ちゅうおうかんがちく)または霞ヶ関一団地の官公庁施設と呼ばれる)としての計画的な整備が進められ、官庁街になる。
歌川国芳による浮世絵・wikipedia-photo、霞ヶ関の煉瓦街(1930年代)・wikipedia-photo  (wikipedia-霞ヶ関より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」[絵図中央付近右・松平安芸守と松平美濃守の間に霞ヶ関と記述されている。]

名所江戸百景・ 霞がせきファイル:100_views_edo_002.jpg

[江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・霞ヶ関

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「霞ヶ関」(7-15)、「霞の関古図」(7-16)、「霞関奮蹟解説・左ページ左側」(7-14)

「東都名所」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・霞ヶ関全図霞ヶ関全図-2霞ヶ関全図-3]

東都 東都霞ケ関山王祭諌込ノ図」、「江都名所 かすみかせき

東都霞ヶ関諸侯行粧の図([歌川(安藤)2代広重]

[「霞が関」という地名の由来には諸説あり、古くは、日本武尊が蝦夷に備えて設けられたもので、雲霞を隔てる地であったことからつけられたという伝説があり、平安期より歌枕の地として多くの和歌によまれています。また江戸期以前、荏原郡の東境にあった奥州路の関名によるといい、江戸期には坂名となり、汎称として用いられました。明治五年、東京府の町名「霞ヶ関」となり、昭和四十二年、地名変更により、現在の霞が関一~三丁目・永田町となりました。(角川日本地名大辞典より)
中央合同庁舎第2号館の桜田通りの側に「霞ヶ関跡」の碑が建っています。明治初期の官庁は、武家屋敷を利用したものが多く、皇居周辺を中心に点在していました。現在の霞が関に初めて立地したのは、明治三年の外務省といわれています。  (「霞が関の歴史 – 国土交通省 」より)]

カメラ西北西方向が江戸期に霞ヶ関と言われた坂で、左側が福岡藩黒田家上屋敷(現外務省)、右側が広島藩浅野家上屋敷(現中央合同庁舎第2号館)です。

カメラ西北西方向に「霞ヶ関跡」の標柱が建っています。

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