食違見附

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マーカーは食違見附の案内板です。

食違見附
[紀尾井坂、坂上の食違見附は江戸の外堀の渡り道が防衛上の理由でジグザグに造られたことから名付けられた。1872年に木戸は取り壊されたが土塁が残っている。1874年にはここで岩倉具視が襲われる事件が起きた(喰違の変)。食違見附の先は紀伊国坂 (港区)(外堀通り)に通じる。  (wikipedia・紀尾井坂より)]

[喰違門(くいちがいもん)は、江戸城外郭城門のひとつである。四谷見附赤坂見附との間にあった。清水坂から紀州家中屋敷に行く喰違土手の前に当たることからの名であるという。
「事跡合考」には、「四つ谷門の続き木戸喰違門は小畠勘兵衛昌盛が縄なり、先年より井伊掃部頭下館の後、彼木戸門際のの大木共は勘兵衛逆茂木として植えたるもの、今に至り数株しげりあるなり」とあるが、これは徳川秀忠将軍の時のさまであるという。
「御当家紀年録」によれば、寛永13年の外濠普請の際、この門の升形は丸亀城生駒壱岐守高俊の助役で組み上げられたものであるという。
万治年間にも造営が行なわれ、「府内備考」には、「万治二年所々御門御造営の時、喰違御門は長谷川久三郎、日根半助を奉行に命ぜられしよし万治年録に載たれば、古くは外々御門とひとしき造りなりしならん、今は仮そめの冠木門となれり、或は喰違土橋とも称す」とある。  (wikipedia・喰違門より)]
 
[喰違見附門
喰違門は弁慶濠を見下ろす外濠の中で最も高い地形に立地にするため、慶長17年(1612)甲州流軍学者の小畑影憲が他の外郭門に先駆けて縄張(設計)し、真田濠を堰き止める土塁を築いた。寛永13年(1636)讃岐国丸亀藩主の生駒高俊が再構築した。喰違いとは、進入路に石組のない土塁を築いて直進を阻むように、左右何れかに一旦曲がりまた直進する縄張の形式名である。戦国時代枡形門を築かない場合に採用された古い関門である。現在は車を通すためにクランク形からS字に変えている。門内には彦根藩井伊家中屋敷伏見宮邸からホテルニュオータニ、尾張藩徳川家中屋敷は上智大学紀尾井ホールなど、門外には紀伊国坂紀州藩徳川家上屋敷13万4千坪(迎賓館赤坂御用地)など。明治7年(1874)1月14日、岩倉具視が暗闇の赤坂喰違に馬車で差し掛かったとき、征韓論を退けられたことに恨みを持つ高知士族武市熊吉ら数人の刺客に襲われ、傷をうけたが真田濠に飛び込み一命をとりとめたのが「喰違の変」である。真田濠は戦後、99年間の借地権で空堀にして上智大学のグランドとなった。  (「大江戸歴史散歩を楽しむ会 – 喰違御門」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二」(コマ番号2/3・絵図左「井伊掃部頭」「尾張殿」の下に「食違」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号44-52/87・絵図「井伊掃部頭」「尾張殿」右に「食違」と描かれています。)

江戸城 喰違見附跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向に食違見附の案内板が設置してあります。

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