飯山藩本多家中屋敷跡(衆議院第一別館)

マーカーは飯山藩本多家中屋敷跡(衆議院第一別館)です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP358・コマ番号223/553から飯山藩屋敷の変遷について記載されています。P361・コマ番号224/553「中屋敷 永田馬場」がこの地になります。

本多助賢
[本多 助賢(ほんだ すけとし、寛政3年1月4日(1791年2月6日) – 安政5年9月17日(1858年10月23日))は、美濃大垣藩主・戸田氏教の次男。官位は従五位下、豊後守。

文化3年(1806年)2月、信濃飯山藩第5代藩主・本多助受の婿養子となる。同年4月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年7月26日、養父助受の隠居により、家督を相続する。同年12月16日、従五位下豊後守に叙任する。文化8年4月、日光祭礼奉行を命じられる。文化11年(1814年)8月4日奏者番に就任する。天保3年(1832年)2月9日、若年寄に就任する。天保12年(1841年)8月7日、若年寄を退任し、従四位下に昇進する。また、帝鑑間取締を命じられる。安政5年(1858年)4月22日、隠居し、先代・助受の三男で養子の助実に家督を譲るが、まもなく没した。  (wikipedia・本多助賢より)]

[飯山藩主・本多のお殿様の上屋敷が国会議事堂の横にあった、と信濃毎日新聞(2012.8.5)「東京の信州」欄に紹介された。首相官邸前に上屋敷の説明板が設置されているそうだ。
この記事は、信濃毎日新聞社・飯山支局に勤務経験があり、現在東京支局勤務の牛山記者が書いたもの。飯山市教育委員会・総合学習センターの望月静雄・学習支援課長が係長時代2003年に調査に赴いたことも紹介されている。  (「飯山藩主・本多氏の上屋敷が国会議事堂の横にあった …」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央右の一画が国会議事堂にあたり、その右下に本多豊後守(本多助賢)中屋敷が描かれています。そこが上記の上屋敷と思われます。)

カメラ東北東方向が衆議院第一別館で、この周辺が飯山藩本多家中屋敷跡になると思います。