マーカーは丸亀藩京極家中屋敷跡です。
関連リンク – 虎ノ門金刀比羅宮(丸亀藩京極家上屋敷跡)、京極稲荷神社(丸亀藩京極家下屋敷跡)、丸亀藩京極家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP735・コマ番号411/553から丸亀藩屋敷の変遷について記載されています。P736・コマ番号412/553「中屋敷 芝新堀端」がこの地になります。
京極高朗
[丸亀藩6代藩主京極高朗は寛政10年(1798年)4月24日、第5代藩主・京極高中の四男として江戸本邸で生まれる。藩政においては高朗自身が文学的才能に秀でていたため、江戸藩邸に藩校・集義館を開いた。弘化2年(1845年)には鳥居耀蔵を預かっている。しかし治世後期から、士民共に奢侈に走る傾向が見えたため、高朗は藩政再建のために加藤俊治らを登用して藩政改革を行ない、倹約と風紀を主とした10か条の法律制定や文教政策に力を注いだ。家臣に副業でのうちわ作りを推奨し、これが人気を博して、今日も香川県丸亀市の名産品となっている丸亀うちわの起こりとなったと一説にいう(高朗誕生以前の天明年間に始まったという説や、藩士の内職以外の説もある)。
京極高朗は相撲好きで、参勤交代で江戸詰めの際に両国の回向院(現在の国技館につながる相撲競技場)で相撲見物をしていたが、熱狂的に観戦したため、大名にあるまじき行為として幕府に大名の相撲観戦を禁止された。しかし、あきらめきれなかった高朗は家臣に御相撲方という役職を作り、相撲中継の実況の役目をさせた。これは現在のアナウンサー職にあたるものであり、ラジオのように弁舌だけで状況を把握して擬似的な観戦をして楽しむものであった。 (wikipedia・京極高朗より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図四つ切左上・戸沢上総介上屋敷下に京極佐渡守(京極朗徹)中屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション -御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(寛永元年・1848年)」(コマ番号4/5・絵図中央、戸沢千代鶴右下に京極長門守(京極高朗)中屋敷と描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第七 麻布区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右下・芝北新門前町2,3,4番が丸亀藩京極家中屋敷跡と思われます。)
カメラ位置は港区東麻布2丁目32,33間の交差点で、カメラ北北東方向道路を含む両サイドが丸亀藩京極家中屋敷跡になると思います。(丸亀藩京極家中屋敷跡範囲:港区東麻布2丁目24~26,32,33)